偶然?必然?
翌日の科学研究部の部室は、どこか落ち着かなかった。
騒がしいわけじゃない。むしろ静かだ。張りつめた糸が、今度は見えない場所で何重にも絡まり始めている――そんな感じだった。窓の外では運動部の掛け声が響いている。廊下を誰かが走り抜ける音もする。
いつもの放課後だ。
……なのに。
ホワイトボードの前には、今日も久遠が立っていた。用語は消されていない。
《保存量》
《再配分》
《収束》
《局所干渉》
《観測》
その横に、今日の分が増えている。
《確率偏差》
《外乱》
《大規模同期》
俺はその文字を見た瞬間、嫌な予感がした。
「……増えてるな」
そう言うと、久遠はペンを止めずに答えた。
「昨夜、追加で解析しました」
「寝た?」
「二時間ほど」
「やめろって……身体壊すぞ…」
鷹宮は机に腰掛けて菓子パンをかじっている。
「相変わらず命削ってんな」
「健康は後回しです」
即答だった。俺はため息をついて椅子を引く。
「で。今日は何が分かった」
久遠は一瞬だけこちらを見てから、ノートパソコンを回した。画面には、折れ線グラフがいくつも並んでいる。
ランダムに見える数列。上下に激しく振れる線。だが、ところどころ――異様に跳ね上がっている部分があった。
「……何これ」
「乱数系列です」
「は?」
鷹宮が身を乗り出す。
「ゲームの抽選みたいな?」
「近いですが、もっと基礎的なものです。物理現象を利用して生成された乱数です」
「サイコロじゃなくて、自然に出た数ってことか」
「はい」
久遠はキーボードを叩く。
「通常、こうした乱数は統計的にほぼ均等に散ります。偏りは理論上、極めて小さい」
「でもこれは?」
「この部分だけ、分布が崩れています」
赤く囲まれた箇所。そこだけ、山のように値が集中している。
「……事故のヒートマップに似てないか」
俺が言うと、久遠は頷いた。
「同じ処理をかけました」
別ウィンドウが開く。昨日までの“危険密度”と、乱数の異常値。重ねられる。
――形が、似ていた。
鷹宮が顔をしかめる。
「偶然じゃなく?」
「統計的に言えば、かなり怪しい水準です」
すぐに言い直す。
「……分かりやすく言うと、普通なら起きないズレです」
俺は喉を鳴らした。
「いつのデータだ」
久遠は一瞬だけ間を置いた。
「……過去の公開研究から引用しました」
そう言って、年表を表示する。
二〇〇一年。
「この年、世界各地の装置で、同時に偏りが出ました」
「……同時?」
「数百台規模です」
俺は体を起こした。
「そんなの偶然じゃなくないか」
「統計的には、かなり厳しいです」
久遠は即答した。
「通常、乱数は長期的に見れば平均に収束します。でもこの期間だけ、特定の値が過剰に出ています」
鷹宮が画面を覗き込む。
「……事件の日付と被ってるな」
二〇〇一年九月。
「何かあったか?ああ……」
俺も思い出した。
「アメリカの同時多発テロか」
「はい」
久遠は頷いた。
「後から研究者たちが検証しています。世界規模の出来事と、乱数の偏りが一致していると」
「つまり……」
「完全な偶然とは言い切れない」
部室の空気が、少し冷えた。久遠はさらに別の年を表示する。二〇一一年。
「こちらもです」
「東日本大震災……」
グラフは、同じように歪んでいた。普段は揺らぐだけの線が、鋭い棘みたいに突き出している。
「大事件の前後で、ランダム性が崩れています」
「世界の運が偏った、みたいな」
「比喩としては近いです」
久遠はホワイトボードに書き足した。鷹宮が黙る。久遠は否定しなかった。
「当時、世界各地で運用されていた物理乱数発生器が、同時期に異常な偏差を示しています」
「同時に?」
「はい。地理的に無関係な場所で、です」
背中がぞわっとした。
「……それって」
「偶然だと言われていました」
久遠は淡々と続ける。
「研究者の多くはノイズ、測定誤差、心理的バイアスだと」
「でも」
「……完全には説明できていません」
鷹宮が腕を組んだ。
「つまりさ」
一拍置いて。
「世界的な大事件の時、確率が歪んでた可能性があるってこと?」
「そういう報告が存在します」
俺は机の縁を指でなぞった。
「それと、今の俺たちが見てる分布が似てる、と」
「規模は違います」
久遠はすぐ補足する。
「ですが、形状が一致しています。局所的な確率の集中と、乱数系列の偏向」
「……小さい版が今、ここで起きてる?」
「可能性は否定できません」
鷹宮が低く息を吐いた。
「冗談じゃないな」
俺はホワイトボードを見た。
《大規模同期》
嫌な単語だ。
「それってつまり……」
口にするのをためらったが、続ける。
「昔は、世界規模で歪んだってことか」
久遠は首を縦に振った。
「少なくとも、“そう解釈できるデータ”はあります」
「原因は?」
「分かっていません」
即答だった。
「自然現象かもしれませんし、観測系の問題かもしれません。あるいは――」
言葉を切る。
「……もっと別の要因か」
鷹宮が目を細める。
「この二つの年は、その地形が大きく歪んでいる」
鷹宮は腕を組んだ。
「で……それが今の街とどう繋がる」
久遠は、次の資料を出した。年号――二〇〇九年。
〈某研究施設 事故〉
〈詳細非公開〉
〈研究内容黒塗り〉
「……これ」
俺の声が低くなる。
「……あれか。ニュースになった久遠の母親が働いていたって話の」
一瞬の沈黙。
「……はい」
久遠は小さく頷いた。
「この事故の直後、国内の複数地点で、乱数発生器の微偏りが記録されています」
「微小って」
「世界規模ほどではありません。でも、形が似ている」
グラフには、ささやかな突起。けれど、さっきの世界規模の異常と同じ向きを向いている。
「……スケール違いのコピーか」
「そうとも言えます」
鷹宮が低く呟いた。
「確率の波紋、みたいな」
久遠は肯定も否定もしなかった。
「この街で起きている現象とも、分布が似ています」
「……マジかよ」
俺は椅子に深く座り直した。
「つまり」
言葉を探す。
「過去の研究事故が、世界的な偏りと同系統で……その影響が今ここに?」
「可能性はあります」
あっさり言う。
久遠は少しだけ視線を逸らした。
「仮説としてはあります」
「国家レベルの?」
「論文上では、そこまでは踏み込まれていません」
俺は背中に冷たい汗を感じていた。
世界規模の事件。
乱数の異常。
確率の偏り。
そして――俺たちの身の回りで起きている“収束”。
「……繋がってるって言うのか」
「断定はできません」
久遠はいつも通りだった。
「ですが、私たちが観測している現象は、過去の異常データと統計的特徴が似ています」
「またその言い方」
「逃げ道を残しています」
正直だ。鷹宮が窓の外を見た。
「それ、下手するとさ」
振り返る。
「世界の裏で何かやってた連中がいるって話になるけど」
「可能性の一つです」
「怖すぎ」
俺は喉を鳴らした。
「……なあ」
二人を見る。
「俺たち、どこまで踏み込んでいいんだ」
久遠は答えなかった。数秒、考えてから言う。
「分かりません」
珍しい。
「ただ――」
ホワイトボードを指す。
「この偏りは、放置すると大きくなる傾向があります」
「今のままだと?」
「局所規模で続けば、いずれ周囲に影響が拡大します」
「……つまり」
「今はまだ、小さい」
小さい。その言葉が、逆に怖かった。
鷹宮がぽつりと言う。
「最初はどんな大事件も、小さな揺らぎから始まるよね」
誰も否定できなかった。俺は胸の奥がざわつくのを感じながら、ノートパソコンの画面を見た。乱数の跳ね上がり。事故の分布。久遠の周囲に集まる赤い影。
「……これさ」
無意識に言っていた。
「俺たち、偶然の正体を覗いてないか」
久遠は静かに答える。
「その可能性はあります」
鷹宮は乾いた笑いを漏らした。
「嫌な趣味だね〜」
俺は笑えなかった。もしこれが、ただの局地的な現象じゃなかったら。もし昔、世界が揺れた時と同じ種類の“歪み”が――
今、ここから始まっているのだとしたら。
俺は思った。
これはもう、事故を止める話じゃない。世界の振る舞いそのものを、追い始めている。胸の奥で、警鐘みたいなものが鳴っていた。
……まだ確証はない。
でも。
戻れる場所からは、確実に遠ざかっている。そう確信してしまった自分が、一番怖かった。




