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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
世界は静かに傾いた

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観測者の立つ場所

科学研究部の部室には、奇妙な静けさがあった。


誰も走らない。誰も騒がない。

昨日まで張りつめていた空気が、糸を張ったまま固まってしまったみたいに動かない。


ホワイトボードには、さらに文字が増えている。


《保存量》

《再配分》

《収束》

《局所干渉》

《観測》


久遠はその前に立って、ペンを指先で回していた。


鷹宮は窓際。

俺は机に肘をついて、天井を眺めている。


誰も最初の言葉を出さなかった。


沈黙を切ったのは、久遠だった。


「……一つ整理しました」


ノートパソコンをこちらへ回す。


画面には、街の地図。その上に淡い濃淡がかぶせられている。


「昨日までの未遂事象と、小規模事故。それに相澤くんの介入点を重ねています」

「……ヒートマップみたいだな」

「ええ。危険の密度です」


鷹宮が覗き込む。


「赤いところがヤバい?」

「簡略化すると、そうです」


指で円を描く。


「ここが私。ここが昨日の廊下」

「……寄ってきてるな」

「はい」


即答だった。


「これは“確率振幅”が局所的に高まっている状態と考えています」

「出た専門用語」

「量子力学用語です」


ちらっと俺を見る。


「簡単に言うと――“起こりやすさの強さ”です」

「確率と違うのか」

「正確には、確率の元になる量ですね。振幅が大きいほど、現実化しやすい」


ホワイトボードに波線が描かれる。


「事故は点じゃなくて、こういう波の山として分布している可能性があります」

「で、俺が止めると」

「この山が潰れます」


ぺた、とペン先で押す仕草。


「すると」

「別に盛り上がる」

「はい。保存されているなら」


鷹宮が腕を組んだ。


「……それ、ほぼ自然法則じゃん」

「現段階では仮説です」

「でも外れてない」

「今のところは」


俺は目を細めた。


「じゃあさ」

「はい」

「完全に消す方法は?」


久遠は一瞬だけ黙った。


「……理論上は、全体の分布を書き換える必要があります」

「街ごと?」

「もっと大きい可能性があります」


冗談じゃない。


「人の流れ、建築物、交通、天候、心理的傾向」

「スケールでかすぎだろ」

「そういう“背景場”が確率を形成しているので」


また出た。


「背景場って?」

「舞台装置全部です。人間含めて」


鷹宮が吹き出す。


「雑すぎない?」

「かなり雑に言っています」


俺は椅子の背にもたれた。


「じゃあ今やってるのは」

「局所操作です」

「……対症療法だな」

「はい」


迷いのない声だった。


その淡白さが、逆に刺さる。


「観測の影響も無視できません」


久遠が続けた。


「観測?」

「量子論では、“見る”ことで状態が確定します」

「聞いたことある」


俺は少し考えてから言う。


「……箱に猫入れてるやつ?」

「シュレディンガーの猫ですね」


あっさり肯定された。


「生きている状態と死んでいる状態が重なったまま存在し、箱を開けた瞬間にどちらかに決まる」

「事故もそれか」

「完全に同じではありませんが、構造は似ています」


久遠は楕円の中にいくつもの線を引いた。


「久遠が怪我する未来。しない未来。別の人が怪我する未来。何も起きない未来。それらが重なった確率の分布として存在している」

「で、俺が止めると?」

「観測と介入を同時に行っていることになります」


鷹宮が小さく口笛を吹く。


「それもう半分測定装置じゃん」

「近いです」


久遠は俺を見る。


「相澤くんの行動は、分布の一部を強制的に潰しています」

「……潰すって言うな」

「正確なので」


ペン先で、雲の片側を削る。


「ここを削ると、残りが別方向に濃くなる」

「……昨日の廊下の件」

「説明できます」


俺は息を吐いた。


「つまり俺は、猫の箱を勝手に揺すってるやつか」

「非常に乱暴な比喩ですが、概念的にはそうです」


鷹宮は吹き出しかけて、すぐ真顔に戻った。


「笑えないな」


久遠は画面を切り替える。昨日と今日の分布が並び、中心はほとんど動いていない。

「相澤くんは、危険を察知した時点で世界を観測しています」


ペンがこちらを指す。


「それ自体が分布を変えている可能性があります」

「……俺が見た瞬間に?」

「はい」


鷹宮が眉を上げた。


「それってさ」

「はい」

「止めなくても歪む?」

「……完全には分かりませんが、現時点で観測が影響している兆候はあります」


部室が静まった。


俺は無意識に指を組んだ。


止めなくても。

見るだけでも。


「……最悪だな」

「ええ」


久遠は否定しなかった。


「現在は三つの要素が重なっています」


ホワイトボードに番号が振られる。


① 久遠周辺の収束

② 相澤の局所干渉

③ 代替事象の発生


……どれも聞き流せる単語じゃなかった。


「これが同時に起きている」

「トリプルコンボじゃん」

「喜ばしくありません」


鷹宮は苦笑した。


「高校の部活でやる内容じゃないな」

「同意します」


俺は机を指で叩いた。


「……なあ」

「はい」

「俺がやめたらどうなる」


久遠は即答しなかった。


画面を見て、数秒考えてから言う。


「……収束は急激になります」

「つまり」

「私に大きな事象が集中する可能性が高いです」

「俺が箱を開けなきゃ、自然に決まる未来もあったんじゃないか」


久遠は、すぐには答えなかった。


「……あります」

「じゃあ俺は余計なことをしてる?」

「いいえ」


珍しく、間を置いて言う。


「致死事象に収束する確率が、有意に上昇します」


喉の奥が詰まった。


鷹宮が視線を逸らす。


「……やめられない構造じゃん」

「はい」


あまりにあっさりしていて、腹が立つ。


「なんでそんな冷静なんだよ」

「冷静に見えるだけです」


久遠は小さく息を吐いた。


「怖いです。でも、データがそれを示している」


俺は目を伏せた。


俺のせいで、誰かが怪我するかもしれない。

俺がやめたら、久遠が危険になる。


選択肢が、どっちも地獄だ。


「……俺さ」


声が低くなった。


「こんなの知る前に戻りたかった」


誰も笑わなかった。


「普通に学校行って、バカな話して、事故なんてニュースで見る側で」

「……」

「今は」


指を握る。


「天井の蛍光灯がチカついただけで、体が勝手に動く」


鷹宮が俺を見る。


「職業病だね」

「笑えねえ」


久遠は静かに言った。


「……それは適応です」

「いらねえ適応だ」

「ですが、生き残るための反応でもあります」


俺は息を吐いた。


「なあ久遠」

「はい」

「お前さ……俺に止めてほしい?」


少しだけ迷ってから、答えた。


「はい」


短かった。


「自分で言ってて怖くないか」

「怖いです」

「……」

「でも、あなたしかいません」


胸の奥が、きしむ。


鷹宮がぼそっと言った。


「……重すぎる信頼」


俺は笑えなかった。


「証明はまだ途中です」


久遠はホワイトボードを見つめる。


「保存則が成立しているか。代替が必然か。偶然か」

「どうやって確かめる」

「観測するしかありません」

「俺を実験材料にするな」

「……すでになっています」


さらっと言うな。窓の外で、部活の掛け声が響いた。


普通の夕方。

でも俺たちは、世界の裏側をめくりかけている。

俺は思った。

これ以上知ったら、戻れなくなる。もう半分は――踏み込んでるけど。


「……なあ」


誰にも聞いていないはずの言葉が漏れた。


「これさ」


指でボードを指す。


「世界のルールだったら」


誰もすぐ答えなかった。


久遠が静かに言う。


「……その可能性は否定できません」


鷹宮が窓の外を見る。


「じゃあ私ら、だいぶヤバい場所掘ってるね」


俺は笑えなかった。


胸の奥で、何かが確実に動いている。


知らなかったはずの構造。選ばされている感覚。

止めるたびに背負う責任。これはもう、ただの能力じゃない。――世界の仕組みに、触ってしまった側の人間だ。そう思った瞬間、寒気が走った。誰にも言わなかったけど。俺はもう、安全な場所には立っていない気がしていた。

やっと書きたかったところかけてます

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