取捨選択する者
翌日の科学研究部の部室は、妙に明るかった。
天気のせいじゃない。蛍光灯のせいでもない。昨日まで漂っていた張り詰めた空気が、わずかに薄まっている。いや、正確には――誰もがそれを口に出さないだけで、重さは残ったままだった。ホワイトボードには新しい線が増えている。昨日の《保存量》《再配分》《収束》の文字は消されず、その下にいくつもの矢印と曲線が書き足されていた。まるで都市全体を模した力学図みたいだ。見ているだけで、胃の奥が重くなる。久遠はすでに来ていた。ノートパソコンと紙束を並べ、椅子には座らず立ったままキーボードを打っている。
「……飛ばしてるな」
俺が言うと、視線を上げずに返ってきた。
「夜の続きです」
「寝た?」
「三時間ほど」
「やめろ」
鷹宮はまだ来ていない。生徒会の仕事だろうか。
「昨日の件……」
言いかけて、止めた。あの女子生徒の血。割れたガラス。俺の腕に残っている感触。久遠は察したのか、キーボードを止めた。
「廊下の件、続報が出ました」
「……どうなった」
「縫合二針。神経損傷なし」
胸の奥が、わずかに緩む。
「大事じゃなかったのか」
「はい」
一拍。
「ですが」
嫌な間。
「事故の種類と位置が、私の未遂と高い一致率を示しています」
画面がこちらに向けられる。
二つの赤点。一つは部室。もう一つは廊下。矢印が引かれていた。
「空間距離、時間差、材質――ガラス。切創部位は手首外側」
「……再現性ってやつか」
「統計語ではそうですね」
少し考えてから言い直す。
「物理的には、“谷”が動いた可能性があります」
「谷?」
「危険が集まる場所です。山の裏側みたいなものですね」
分かりやすい。
「相澤くんが押し下げた場所の近くに、新しい山ができたかもしれません」
昨日の言葉が、頭の中で蘇る。
――パンドラの箱。
そのとき、ドアが開いた。
「おはよー……いや、もう夕方か」
鷹宮だった。紙袋を二つ抱えている。
「差し入れ」
「神か」
「頭使うと糖分いるでしょ」
机に置かれたコンビニ袋の音がやけに日常的で、逆に浮いていた。ホワイトボードを一瞥してから、ふと思い出したように言う。
「……そういえばさ。昨日廊下で怪我した子、どうなった?」
軽い口調。でも視線は赤点の一つに止まっていた。
「担任から簡単な報告は来てたけど」
「縫合二針。大事には至ってません」
「そっか……」
小さく息を吐く。
「よかった」
嘘じゃない声だった。
「“やっぱり”って顔してたけど」
「まあ、生徒会的にね。連続すると洒落にならない」
久遠が説明に入る。
「未遂直後の代替事象の可能性があります」
「……つまり?」
鷹宮が聞き返す。
「相澤くんが止めた場所の近くで、別の形で危険が出たかもしれません」
「移動したってこと?」
「まだ仮説です」
即補足。
「相関が見えただけです」
鷹宮は小さく息を吐いた。
「……いやなブレイクスルーだね」
俺は袋から缶コーヒーを取ったが、まだ開けなかった。
「なあ」
二人を見る。
「俺、止めない方がいいのか」
久遠はすぐ答えなかった。
「止めなかった場合、私の危険度は上がります」
「止めたら、別の誰かの確率が上がる」
「……可能性はあります」
鷹宮が割り込む。
「二択地獄じゃん」
久遠は静かに続けた。
「ですが現在は、全体の振幅は下げられています」
「……要するに?」
「死に直結する事象は減っています」
「今のところ、だろ」
「はい」
即答すぎる。
俺は缶を開けた。
ぷし、という音がやけに響いた。
「……じゃあ、俺はどうすればいい」
「続けてください」
久遠は迷わなかった。
「観測と介入を同時に行う必要があります」
「また難しい」
「見るだけじゃなく、押さえるという意味です」
鷹宮が眉を上げる。
「功利主義っぽい」
「被害総量を減らす考え方ですね」
俺は笑えなかった。
「誰かが怪我しても?」
「……比較問題になります」
一瞬、間が空く。
「全体が悪化するよりは、という話です」
重い。窓の外では運動部の声がしている。普通の放課後。なのに俺たちは、人の怪我を数式で測っている。
「なあ久遠」
口を開いた。
「自分が中心だって分かってて怖くないのか」
「怖いです」
「即答だな」
「無視できません」
淡々としているけど、指先はキーボードの縁を強く押していた。
「逃げたら?」
「分布は追従する可能性が高いです」
逃げ場がない。鷹宮は少し黙ってから言った。
「……生徒会的にはさ」
一瞬、言葉を選ぶ。
「“偶然”で済ませるには、続きすぎなんだよね」
それから俺を見る。
「次に誰かが怪我したら――それ、君のせいになるって言われると思う?」
胸が締まった。久遠は首を振る。
「因果は断定できません」
「でも関係はあるかもしれない」
「……はい」
鷹宮は俺を見る。
「耐えられる?」
答えなかった。昨日の血の色が浮かぶ。
「……分かんねえ」
正直に言った。
「でも」
視線を落とす。
「久遠が怪我するの、見過ごすのは無理だ」
久遠が一瞬、瞬いた。
「……合理的ではありません」
「知ってる」
「感情論です」
「だな」
でも引かなかった。鷹宮は黙って缶を開ける。
「ぷは……」
一息。
「当面は継続だね」
「軽く言うな」
「重いけどさ」
目は笑っていなかった。
「止められるなら止める。記録は取る。被害は最小化。今はそれしかない」
久遠が頷く。
「同意します」
俺は胸の奥の違和感を無視した。これ、本当に正しいのか。止めるたびに、誰か別の場所で歪みが跳ねるなら。俺はどこまで関われる。部室の蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。誰も気にしなかった。
――でも俺だけは、反射的に天井を見ていた。
もう身体が覚えている。危険を探す目。歪みを読む感覚。それが便利だなんて、思えなかった。やはりこれは力じゃない。選ばされ続ける立場だ。誰を守って、誰の未来を賭けに出しているのか。答えは、まだ出ていない。でも。
今日も俺は、止める側に立っている。
それだけは、もう逃げられなかった。




