移された刃
科学研究部の部室には、まだ夕方の余熱が残っていた。窓から差し込む光がホワイトボードを白く照らし、《保存量》《再配分》《収束》という文字だけが、やけにくっきりしていた。久遠は机の端に立ち、プリントをまとめていた。いつもより無言が多い。
「……まだ考えてる?」
俺が言うと、久遠は一拍置いて頷いた。
「はい。統計処理を回し直しています」
「学校でやる作業量じゃないだろ」
「締切はありませんが、状況は進行しています」
相変わらず淡々としている。その背中を見ていると、“中心”という言葉が頭をよぎる。鷹宮は窓際でスマホを操作していた。誰かの診断書らしいファイルが並んでいるのがちらっと見えた。
「ねえ」
軽い声。
「今日も何も起きてないよね?」
「“大きいの”はな」
「言い方」
久遠がプリントを棚に戻そうとして、古いガラス製のビーカーに手を伸ばした。縁にヒビの入ったやつだ。その瞬間――胸の奥が、ビクッと鳴った。視界の端で、久遠の指先が滑る。
「……!」
俺は反射的に腕を伸ばした。
「待て!」
手首を掴んで引き戻す。ビーカーが棚から落ち、机にぶつかって砕けた。ぱん、と乾いた音。透明な破片が飛び散る。久遠の指先は空中で止まっていた。あと数センチで、破片に突っ込んでいた位置。
「……」
部室が静まり返る。鷹宮が目を見開いた。
「うわ……今の危な」
「……割れましたね」
久遠は自分の手を見下ろした。脈を取るみたいに手首を軽く押さえている。
「……相澤くん」
「何」
「今、どうして止めましたか」
「……嫌な感じがした」
嘘じゃない。理由は説明できない。でも確かに――来た。久遠は床の破片と、自分の手首とを交互に見た。
「……予測は不可能でした」
「割れかけてたろ」
「摩耗度は平均的です」
納得していない目だ。鷹宮はしゃがみ込みながら破片を避けた。
「それ、完全にアウトだったね。動脈側」
「……ですね」
久遠は制服の袖を少し引き下ろした。
「また未遂」
「……俺が止めたからだ」
その瞬間。外から悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
廊下の方。次いで、ガタン、と何かが当たる音。
俺と久遠は同時に顔を上げた。
「……行くぞ」
廊下に出ると、放課後だからか人はそこまで多くないものの、人だかりができていた。教室のドアの前。透明なガラスがはめ込まれた古い引き戸だ。女子生徒が壁に背をつけて座り込んでいる。片腕を押さえ、指の間から赤い雫が床に落ちていた。
「……ぶつかった……」
息が上がっている。ドアのガラス面に、細いヒビが走っていた。端が欠けて、鋭い断面が露出している。どうやら、急いで曲がった拍子に肩からぶつかり、反射的に腕を出してしまったらしい。
偶然近くにいた先生が駆け寄ってくる。
「動かないで!押さえて!誰か保健室!」
タオルが当てられ、血がじわっと広がる。
久遠は、その場から動かなかった。視線が女子生徒の手首と、欠けたガラスを往復する。
「……時系列的に」
ぽつり。
「私の未遂の直後です」
「……偶然だろ」
「可能性はあります」
でも、言い切らなかった。鷹宮が小さく息を吐く。
「……嫌な一致だね」
部室に戻ると、三人とも黙っていた。割れたビーカーの破片がまだ床に残っている。さっきまで“未遂”だった場所が、今は単なる“破片”になっているのに、頭の中では順番が逆に見える。久遠が静かに言う。
「……保存」
「え」
「さっきの仮説です」
視線を上げない。
「頂点を押し下げた直後、別の地点で事象が発生しました」
「……移ったって言うのか」
「……まだ断定はできません」
一拍。
「ですが、否定もしきれません」
鷹宮は口笛を吹いた。
「初の実地データじゃない?」
「喜ぶな」
「いや、怖いよ。でも」
少し笑ってから続けた。
「検証段階に入ったってこと」
そのとき、鷹宮のスマホが震えた。
「……っと」
画面を見ると、少しだけ眉をひそめる。
「ごめん、電話」
部室の端で出る。
「もしもし……あー……うん。まだ入院中でしょ……」
声が少し低くなる。
「……着替え?今日?……分かった、あとで持ってく」
電話を切って戻ってくる。
「妹?」
「うん。病院から出られなくてさ」
「……重いのか」
「まあまあ。長い話」
さらっと流す。
「今日一式持ってきてるから、部活終わったら寄ってく」
久遠はちらっとその背中を見た。
「……入院、長いんですか」
「慢性系。慣れてる」
軽い言い方。でも一瞬だけ、視線が逸れた。俺はさっきの廊下の光景を思い出していた。久遠の手首。ガラス。割れた音。直後の悲鳴。ドアの欠けた断面。血。同じ“ガラス”で、同じ“手首の位置”で。まるで答え合わせみたいに並んでしまった。
「……なあ」
言葉が自然と出る。
「もし、だ。俺が止めなかったら」
「……私が切っていた可能性はあります」
「その代わりに、さっきの子は?」
「……分かりません」
久遠は首を振る。
「相関があるとしても、置換関係かどうかは不明です」
「でも否定もできない」
「はい」
静かだった。
「……最悪だな」
「最悪です」
即答だった。鷹宮は腕を組んで天井を見る。
「……誰か助けたら、別の誰かが危なくなる世界か」
「仮説です」
「うん。でも」
俺を見る。
「それ、使い方次第で地獄だよね」
笑ってない。帰り道。俺は無意識に久遠の半歩前を歩いていた。
「……さっきの」
「何」
「ありがとうございました」
「礼言うほどじゃない」
「言います」
短かった。
夜、布団に入っても眠れなかった。ガラスの音。久遠の手首。欠けたドアの断面。タオルの赤。
止めたはずなのに。完全には消えていない。
……押し下げただけ。確率の山を。
そして、その中心にいるのは。
間違いなく――久遠だった。




