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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
世界は静かに傾いた

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22/36

パンドラの一端

科学研究部の部室は、夕方の光に満ちていた。

窓際の机に影が伸び、ホワイトボードには昨日までの地図と線が残っている。赤い丸と青い矢印が絡まり合い、まるで都市そのものを切り取った神経図みたいだった。久遠はペンを持ったまま立っている。


「ここまでの未遂事象と小規模事故を重ねると、共通点が見えてきます」


板書されたグラフは、なだらかな山型を描いている。


「局所的には減っているのに、全体の件数はほぼ一定です」

「……つまり」


俺は椅子にもたれた。


「俺が止めても、別の場所で起きてるってことか」

「はい。完全に消えていません」


ドアが開いた。


「ふーん、ずいぶん怖い話してるね」


資料の束を抱えた鷹宮が入ってきた。制服の上に白衣を羽織り、いつも通り軽い調子だ。


「今日は三人会議?」

「成り行きです」


久遠は即答する。鷹宮はホワイトボードを眺めた。


「この円、中心が久遠?」

「現時点では」

「で、周囲に散ってるのが未遂と小事故」

「はい」

「……面白い分布」


笑っているのに、視線は真剣だった。俺は腕を組む。


「久遠、さっきの続き」

「仮説です」


そう前置きしてから、ペンで山型の曲線をなぞる。


「事故は、結果ではなく確率分布として存在している可能性があります」

「……確率」

「量子力学では、観測されるまで状態は確率的に重なっています。どの結果が起きるかはランダム。でも――」


線を引き直す。


「分布全体の形は、急激には変わらない」


鷹宮が口笛を吹いた。


「マクロに拡張した量子論ってやつ?」

「近いです。都市スケールの統計系として考えています」


俺は眉をひそめる。


「要するに……事故は世界から消せない?」

「正確には、総量はほぼ保存されている可能性があります」

「保存……」

「私はこれを“確率保存則仮説”と呼んでいます」


さらっと言う。


「局所的に山を削っても、面積は消えません。横へ広がるか、別の場所に移る」

「……俺がやってるのは」

「山の頂点を押し下げているだけです」


一瞬、部室が静まった。鷹宮は顎に手を当てる。


「それってさ」

「はい」

「一人を助けたら、どこかで別の誰かに起きる可能性が上がるってこと?」


久遠は迷わず頷いた。


「統計的には」


俺は息を吐いた。


「最悪だな」

「倫理的には最悪です」


即答だった。鷹宮は苦笑する。


「科学って、たまに冷酷だよね」


そう言いながら、ホワイトボードに近づく。


「でもさ、もしその分布を――」


指で円全体を囲む。


「丸ごと変えられたら?」

「都市構造、人流、行動選択、環境変数……」


久遠は淡々と列挙する。


「無理だろ」

「通常は、です」


その“通常”に、妙な間があった。鷹宮は俺をちらっと見る。


「例外がいるとしたら?」

「……相澤くんです」


久遠は視線を逸らさず言った。


「あなたは事象発生直前に行動を変えています。しかも無意識に。これが偶然なら、説明できません」


俺は頭を掻いた。


「俺だって分かってないんだけど」

「分かっていないのが問題です」


きっぱり。鷹宮は楽しそうに笑った。


「いやー、ヒーロー誕生?」

「やめろ」

「でもさ」


少しだけ声が落ちた。


「それ、負担でしょ」


俺は答えなかった。久遠が代わりに言う。


「負担です。でも――」


ホワイトボードの青い円を見た。


「必要です」


鷹宮はしばらく黙って考えていた。


「……その仮説が正しいならさ」

「はい」

「今って、やっぱり嵐の前の静けさってやつじゃない?」


俺と久遠が同時に見る。


「小さい事象が増えてる。未遂が連続してる。全部、歪みの放出みたいだ」

「地震前の前兆現象に近いですね」


久遠が言った。


「応力解放の微小イベント」

「で、溜まってる本命が――」


鷹宮は円の中心を軽く叩く。


「ここ」


空気が少し冷えた。


「……久遠」


俺は低く言う。


「自覚はあるのか」

「あります」


即答だった。


「最近、私の周囲での発生頻度が上がっています」

「だったら」

「逃げても、分布は変わらない可能性が高いです」


淡々としすぎていて、逆に怖い。鷹宮は肩をすくめた。


「理系は覚悟決まりすぎ」

「事実確認をしているだけです」

「でもさ」


俺を見る。


「止められるなら止めたいでしょ」

「……当たり前だろ」

「じゃあ研究続行だね」


軽い調子。でも目は笑っていなかった。久遠はホワイトボードの端に、小さく文字を書き足した。


《保存量》

《再配分》

《収束》


「今の問題は」


振り返る。


「“誰かを助けた結果、別の誰かが危険になる”構造が本当に存在するかどうかです」

「検証方法は」

「……難しいです」

「だろうな」


鷹宮がため息をついた。


「倫理委員会呼ばれるやつ」

「高校です」

「そうだった」


少し笑いが起きる。でも、すぐに消えた。窓の外で風が鳴る。久遠は静かに言った。


「もし、この仮説が正しいなら――」


一拍。


「私の身に起きていることは、偶然ではありません」


俺は拳を握った。


「だったらなおさらだ」

「何がですか」

「分布ごと変える方法、考える」


鷹宮は目を細めた。


「……いいね」


その声は、どこか楽しそうで。


「それ、うちの部の看板研究にしよう」


久遠は一瞬だけこちらを見て、頷いた。


「賛成です」


俺だけが、胸の奥のざわつきを抑えられずにいた。


――確率は消えない。

移動する。集まる。そして今、その中心は。

間違いなく、久遠だった。

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