パンドラの一端
科学研究部の部室は、夕方の光に満ちていた。
窓際の机に影が伸び、ホワイトボードには昨日までの地図と線が残っている。赤い丸と青い矢印が絡まり合い、まるで都市そのものを切り取った神経図みたいだった。久遠はペンを持ったまま立っている。
「ここまでの未遂事象と小規模事故を重ねると、共通点が見えてきます」
板書されたグラフは、なだらかな山型を描いている。
「局所的には減っているのに、全体の件数はほぼ一定です」
「……つまり」
俺は椅子にもたれた。
「俺が止めても、別の場所で起きてるってことか」
「はい。完全に消えていません」
ドアが開いた。
「ふーん、ずいぶん怖い話してるね」
資料の束を抱えた鷹宮が入ってきた。制服の上に白衣を羽織り、いつも通り軽い調子だ。
「今日は三人会議?」
「成り行きです」
久遠は即答する。鷹宮はホワイトボードを眺めた。
「この円、中心が久遠?」
「現時点では」
「で、周囲に散ってるのが未遂と小事故」
「はい」
「……面白い分布」
笑っているのに、視線は真剣だった。俺は腕を組む。
「久遠、さっきの続き」
「仮説です」
そう前置きしてから、ペンで山型の曲線をなぞる。
「事故は、結果ではなく確率分布として存在している可能性があります」
「……確率」
「量子力学では、観測されるまで状態は確率的に重なっています。どの結果が起きるかはランダム。でも――」
線を引き直す。
「分布全体の形は、急激には変わらない」
鷹宮が口笛を吹いた。
「マクロに拡張した量子論ってやつ?」
「近いです。都市スケールの統計系として考えています」
俺は眉をひそめる。
「要するに……事故は世界から消せない?」
「正確には、総量はほぼ保存されている可能性があります」
「保存……」
「私はこれを“確率保存則仮説”と呼んでいます」
さらっと言う。
「局所的に山を削っても、面積は消えません。横へ広がるか、別の場所に移る」
「……俺がやってるのは」
「山の頂点を押し下げているだけです」
一瞬、部室が静まった。鷹宮は顎に手を当てる。
「それってさ」
「はい」
「一人を助けたら、どこかで別の誰かに起きる可能性が上がるってこと?」
久遠は迷わず頷いた。
「統計的には」
俺は息を吐いた。
「最悪だな」
「倫理的には最悪です」
即答だった。鷹宮は苦笑する。
「科学って、たまに冷酷だよね」
そう言いながら、ホワイトボードに近づく。
「でもさ、もしその分布を――」
指で円全体を囲む。
「丸ごと変えられたら?」
「都市構造、人流、行動選択、環境変数……」
久遠は淡々と列挙する。
「無理だろ」
「通常は、です」
その“通常”に、妙な間があった。鷹宮は俺をちらっと見る。
「例外がいるとしたら?」
「……相澤くんです」
久遠は視線を逸らさず言った。
「あなたは事象発生直前に行動を変えています。しかも無意識に。これが偶然なら、説明できません」
俺は頭を掻いた。
「俺だって分かってないんだけど」
「分かっていないのが問題です」
きっぱり。鷹宮は楽しそうに笑った。
「いやー、ヒーロー誕生?」
「やめろ」
「でもさ」
少しだけ声が落ちた。
「それ、負担でしょ」
俺は答えなかった。久遠が代わりに言う。
「負担です。でも――」
ホワイトボードの青い円を見た。
「必要です」
鷹宮はしばらく黙って考えていた。
「……その仮説が正しいならさ」
「はい」
「今って、やっぱり嵐の前の静けさってやつじゃない?」
俺と久遠が同時に見る。
「小さい事象が増えてる。未遂が連続してる。全部、歪みの放出みたいだ」
「地震前の前兆現象に近いですね」
久遠が言った。
「応力解放の微小イベント」
「で、溜まってる本命が――」
鷹宮は円の中心を軽く叩く。
「ここ」
空気が少し冷えた。
「……久遠」
俺は低く言う。
「自覚はあるのか」
「あります」
即答だった。
「最近、私の周囲での発生頻度が上がっています」
「だったら」
「逃げても、分布は変わらない可能性が高いです」
淡々としすぎていて、逆に怖い。鷹宮は肩をすくめた。
「理系は覚悟決まりすぎ」
「事実確認をしているだけです」
「でもさ」
俺を見る。
「止められるなら止めたいでしょ」
「……当たり前だろ」
「じゃあ研究続行だね」
軽い調子。でも目は笑っていなかった。久遠はホワイトボードの端に、小さく文字を書き足した。
《保存量》
《再配分》
《収束》
「今の問題は」
振り返る。
「“誰かを助けた結果、別の誰かが危険になる”構造が本当に存在するかどうかです」
「検証方法は」
「……難しいです」
「だろうな」
鷹宮がため息をついた。
「倫理委員会呼ばれるやつ」
「高校です」
「そうだった」
少し笑いが起きる。でも、すぐに消えた。窓の外で風が鳴る。久遠は静かに言った。
「もし、この仮説が正しいなら――」
一拍。
「私の身に起きていることは、偶然ではありません」
俺は拳を握った。
「だったらなおさらだ」
「何がですか」
「分布ごと変える方法、考える」
鷹宮は目を細めた。
「……いいね」
その声は、どこか楽しそうで。
「それ、うちの部の看板研究にしよう」
久遠は一瞬だけこちらを見て、頷いた。
「賛成です」
俺だけが、胸の奥のざわつきを抑えられずにいた。
――確率は消えない。
移動する。集まる。そして今、その中心は。
間違いなく、久遠だった。




