机上の空論
科学研究部の部室は、今日は妙に整っていた。
実験器具は棚に収まり、机の上にはノートパソコンとプリントアウトされた資料だけ。ホワイトボードには地図とグラフと矢印が描かれているが、以前ほど混沌とはしていない。久遠が整理したらしい。
「……空間分布はこの辺りに偏っています」
ホワイトボードの円を指しながら、久遠は淡々と言った。
「中心は――」
「分かってる。お前だろ」
「はい」
即答だった。俺は椅子に座り直す。
「時間帯は?」
「ばらけています。朝、放課後、帰宅途中」
「じゃあ曜日」
「相関なし」
「天気」
「弱いです。晴れも雨も曇りも含まれます」
「……通学経路は?」
「一致率が高いです」
「学校行事は」
「今のところ該当なし」
淡々と否定が積み上がっていく。
「周期性は?」
「週単位では見られません。月単位も弱いです」
久遠はペンを止めて、少しだけ考え込んだ。
「……個人的な生活リズムの影響は検討中です」
「睡眠とか?」
「はい。登校時間、帰宅時刻、活動量」
「大変だな」
「必要なので」
そのとき、俺が机の端の紙束に肘をぶつけた。ばさっ。
資料が床に散る。
「あ」
屈み込んだ拍子に、視界の端に銀色の線が入った。久遠の制服の襟元から、細い金属の線。
……鎖?
前からあったか、あれ。一瞬、目が止まる。
「……どこ見てるんですか」
「違う違う、紙!」
「今、止まりました」
「だから紙!」
「胸元で」
「違うって!」
久遠は小さく息を吐いた。
「……何を見たんですか」
俺は一瞬迷ってから言った。
「その……鎖」
久遠はきょとんとしたあと、自分の胸元を指で探った。制服の中から、ほんの少しだけ銀色が覗く。
「……ああ。これですか」
「それ」
短く言うと、久遠は鎖を引っ込めた。
「……ネックレスです。校則違反になるので、外には出していません」
「……そうなんだ」
「母の形見なので。着けていると母が見守ってくれているような気がして」
淡々とした声だったけど、視線は一瞬だけ逸れた。
「……悪い」
「気にしなくていいです」
即答だった。でも、そのあと少しだけ指先が胸元に残っていた。俺は咳払いしてホワイトボードを見る。
「で、続き」
久遠はすぐに研究モードへ戻る。
「個人イベントとの相関も検討しています」
「例えば?」
「家庭環境、記念日」
「……記念日」
少し考えてから言った。
「誕生日とか?」
久遠がちらっとこちらを見る。
「……検討価値はあります」
「即否定じゃないんだ」
「否定できるデータがまだありません」
「理系こわ」
「褒めていません」
「相澤くんはいつですか」
「六月十日」
「……初夏ですね」
「そういう評価なのか」
「事実です」
「久遠は?」
ほんの一瞬、間が空いた。
「……十二月二十八日です」
「年末だな」
「はい」
それだけで会話は終わった。
「今のところ、誕生日との相関は見つかっていません」
すぐにホワイトボードへ向き直る。俺は伸びをした。
「じゃあ今日は空振り?」
「整理が進んだので成果はあります」
「前向きだな」
「研究者なので」
ほんの少しだけ口角が上がった。窓の外では夕焼けが校舎を染めている。部室には、いつも通りの放課後の音。
……なのに。
「相澤くん」
「ん?」
「最近、避けすぎです」
「何を」
「色々です」
「抽象的だな」
「事実なので」
俺は苦笑した。
「まあ、危ないよりはいいだろ」
「それはそうですが」
一瞬だけ視線が泳いだ。
「……偏りすぎるのも問題です」
「はいはい」
深く考えずに流した。俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
「で、実際偏りって、どのくらいなんだよ」
「頻度が上がっています」
「数字で」
「一週間あたりの未遂事象が、三倍です」
「……さらっと言うな」
久遠はグラフを指で叩いた。折れ線がじわじわと上昇している。
「派手な事故ではありません」
「未遂ばっかりだな」
「はい。そこが重要です」
ペン先で円を描く。
「大規模事故の前には、小規模トラブルが増える傾向があります」
「地震の前兆みたいな?」
「近いです。応力解放現象」
「……微小事故ってわけか」
「そう考えると説明しやすいです」
嫌な説明だった。
「今は“逃げられている”状態」
「言い方」
「統計的には正確です」
俺は鼻で笑った。
「フォローゼロだな」
「現象は現象なので」
未遂事象の表が追加される。場所、人数、天候、回避の有無。
……ほぼ全部にチェックが入っている。
「これ全部俺絡みか」
「はい」
「……俺いなかったら?」
「未検証です」
「検証すんな」
「倫理的に問題があります」
即答。
「止めてるせいで歪んでる可能性は?」
「排除できません」
「だろ」
「ただし、死亡率は低下しています」
「……下がってるのか」
「はい」
少し救われた。
「じゃあ止め続けるしかないな」
「そうなります」
「高校生の役目じゃない」
「同意します」
「でもやる」
「……合理的ではありません」
「知ってる」
久遠はペンを置いた。
「……ありがとうございます」
「急にどうした」
「統計的に協力的です」
その空気を壊すように俺が言う。
「最近寝てるか」
「六時間です」
「少な」
「検討します」
珍しい。
「俺、知らない廊下の夢見る」
「警報音は」
「ある」
「……関連の可能性があります」
天井を見る。
「普通の高校生活どこ」
「テストと購買争奪戦です」
「地獄」
少し笑った。久遠も、ほんの少しだけ。
「……こういう日が続けばいいんですけど」
「討論だけで終わる日な」
「はい」
でも声は低かった。
ホワイトボードを消す。
円が消え、矢印が消え、中心点だけが残る。
「……消し忘れ」
「あ」
慌てて消す。
「……静かすぎます」
「嵐の前?」
「近いです」
鞄を肩に掛ける。
「今日は何も起きてない」
「……今日“は”ですね」
強調した。
廊下に出ると夕焼けが反射していた。
平和すぎる。でも俺は無意識に天井を見ていた。
「……やめろ俺」
「何をですか」
「警戒」
「無理です」
階段を降りながら。
「誕生日の件、サンプルが足りません」
「集めんな」
「学年単位で――」
「やめろ。他の生徒も困惑するぞ」
角で止まる。
「今日は帰ります」
「研究は」
「脳が飽和しました」
「珍しい」
「人間なので」
その背中を見ながら思う。
――今日も何も起きなかった。
それだけなのに。妙に、怖い。嵐の前の静けさは、きっとこんな顔をしている。
やっと物語の中核付近に踏み込むことができました。長かった〜




