不動の円環
科学研究部の部室は、やけに静かだった。夕方の光が窓から斜めに差し込み、実験台の影が長く伸びている。昨日までホワイトボードを埋めていた地図もグラフも、今日は一部だけが残されていた。消された部分の白さが妙に目立つ。俺は鞄を床に置いてから、ボードを見た。
円がある。昨日と同じ位置。昨日と同じ大きさ。
……動いていない。
「……増えてないな」
久遠理沙は、机にノートパソコンを開いたまま答えた。
「はい」
短い。いつもなら、もう三つくらい補足が付く。
「新しい未遂は?」
「ありません」
「事故は?」
「報告なしです」
静かすぎる。俺は椅子に腰を下ろした。
「……止まった?」
「分かりません」
久遠はキーボードから手を離し、眼鏡を押し上げた。
「収束途中で停滞するケースはあります」
「ケース?」
「理論上は」
「理論上多いな」
「まだモデル段階なので」
嫌な言い方だ。ホワイトボードに向き直り、ペンで円の外側をなぞる。
「昨日までは半径が縮んでいました」
「今日は?」
「変化なしです」
「……良いことじゃないのか」
「判断できません」
即答だった。俺は喉を鳴らす。
「久遠」
「はい」
「正直に言え」
久遠は一瞬だけ視線を逸らした。
「……嫌な停まり方です」
その言い方で、全部伝わった。机の上には紙の束が積まれている。統計表。時系列グラフ。搬送件数。
「今日やってたの、それか」
「ええ」
「新しい事故が出てない日の分布です」
「……逆じゃないのか」
「逆です」
迷いがない。
「起きなかった日の方が、重要です」
俺はグラフを覗き込んだ。
「減ってないな」
「ええ」
「増えてもいない」
「はい」
「……で?」
久遠は紙を一枚引き抜いた。
「分散が消えていません」
「何語だ」
「事故が減ったわけではない、という意味です」
安心できない言い換えだ。そこへ、ドアがノックされた。
「失礼しまーす」
軽い声。鷹宮環だった。生徒会資料を抱えている。
「今日も本格的だね」
「整理しているだけです」
「ほう」
鷹宮はホワイトボードを見た。
「円……変わってない?」
「はい」
「不気味だね」
久遠は否定しなかった。俺は言った。
「部長、これどう思う」
「高校生に聞く?」
「俺も久遠も高校生だ」
鷹宮は少し考える。
「……急に静かになるのって、たいていろくなことない」
久遠が頷いた。
「私も同意見です」
「だよな」
「根拠は?」
「経験」
「却下」
「え~ん、久遠ちゃんが冷たいよ~」
「日頃の行いだな」
久遠は再びボードに向かった。
「仮説は三つあります」
「急に学会始めたな」
「第一。観測が誤っている」
「否定したい」
「第二。一時的な停滞」
「一番嫌」
「第三……」
一瞬だけ、言葉を切った。
「事象の準備段階」
空気が少し重くなる。
「何それ」
「歪みが溜まっている可能性です」
「……地震かよ」
「似たようなものですね」
鷹宮が腕を組んだ。
「大地震の前の余震、みたいな?」
「はい」
「やめてくれ」
俺は窓の外を見た。運動部の声。夕焼け。いつもの放課後。
なのに、空気だけ違う。
「……久遠」
「はい」
「今日、帰り一人で歩くな」
「命令ですか」
「忠告」
「合理的ではありません」
「知ってる」
「……検討します」
少しだけ、間があった。鷹宮は時計を見た。
「そろそろ戻らないと」
「生徒会?」
「地獄」
言い切った。帰り際、鷹宮はちらっと俺を見た。
「無理しないでよ」
「……どっちにですか」
「全部」
そう言って部長は部室を後にした。
久遠と二人になる。しばらく、誰も喋らなかった。
「……怖いか」
俺が言う。久遠は少しだけ考えてから答えた。
「怖いです」
即答だった。
「でも、止めたいです」
その声は、昨日よりはっきりしていた。円は、動いていない。それが、今は一番怖かった。
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