科学研究部は偶然を嫌う
翌日の放課後。
俺は、いつもより少し早めに教室を出た。
昨日の踏切のことは、まだ頭の中に残っている。
夢に見るほどじゃないが、思い出すと胸の奥がわずかに重くなる。
説明できない感覚は、時間が経っても薄れないらしい。
科学研究部の部室は、旧校舎の三階にある。
使われなくなった実験室を、そのまま流用したような場所だ。
白衣、フラスコ、意味の分からない装置。
文化部の中では一番「それっぽい」見た目をしていると思う。
ドアを開けると、すでに一人いた。
「遅いですよ、相澤くん」
久遠理沙。
白衣を着たまま、机にノートパソコンを広げている。
放課後の部室なのに、妙に様になっているのが腹立つ。
「いつも通りだろ」
「昨日より三分遅いです」
「そこ測ってんのかよ」
「当然です。時間は物理量ですから」
昨日の踏切の件がなければ、俺はこの会話を完全に聞き流していただろう。
でも今日は、言葉の一つひとつが妙に引っかかる。
俺は椅子に腰を下ろし、鞄を床に置いた。
「で?」
「で、とは?」
「昨日の件。何か言いたいことあるんだろ」
久遠は一瞬だけ視線を逸らし、それからキーボードを叩く手を止めた。
「……言いたいことは、山ほどあります」
「怖いな」
彼女は椅子を回転させ、真正面から俺を見る。
理系特有の、感情を削ぎ落とした視線。
「まず前提条件を整理します」
「もう始まってんのか」
「昨日、踏切において」
「うん」
「あなたは、警報が鳴る前に私を引き止めた」
「結果的にな」
「結果論ではありません」
きっぱり言い切られて、言葉に詰まる。
「警報音が鳴るまでの時間は約0.8秒」
「またその話か」
「人間の反応速度を考えると、あなたは“鳴る前”に危険を察知していないと説明がつきません」
久遠はホワイトボードに、簡単な図を書き始めた。
踏切、俺、久遠、電車。
矢印と数字。
「統計的に見て」
「出たな」
「昨日のあなたの行動は、偶然として処理するには無理があります」
俺は頭を掻いた。
「勘だよ」
「科学研究部でその言葉を使います?」
「使う」
「嫌です」
「即否定かよ」
久遠はため息をついた。
「相澤くん」
「なんだ」
「あなた、自覚がなさすぎます」
「何の」
「自分が、ちょっとおかしいこと」
その言い方は、冗談めいているようで、どこか本気だった。
「私は、偶然が嫌いです」
「知ってる」
「世の中の“運が悪かった”という言葉も嫌いです」
「それも知ってる」
「説明できない現象は、必ずどこかに理由があります」
彼女は、昨日と同じように眼鏡を押し上げる。
「なのに、あなたはそれを全部“なんとなく”で済ませる」
俺は少し考えてから言った。
「じゃあ逆に聞くけどさ」
「はい」
「昨日、俺が何もしなかった場合」
「……」
「久遠はどうなってたと思う?」
一瞬、空気が止まる。
「……踏切内に進入し、列車と接触」
「生存確率は?」
「……低いです」
彼女は、視線を落とした。
「それでも、説明できないから信じない?」
「信じません」
「即答だな」
でも、その声は少しだけ小さかった。
「信じる信じないの問題ではありません」
久遠は言う。
「再現性がない現象を、個人の勘で処理するのは危険です」
その言葉に、胸の奥がざらつく。
「じゃあ、どうすればいい」
「観測します」
「俺を?」
「はい」
即答だった。
「あなたの行動と、その結果」
「日常で起きる小さな偶然」
「それらを、データとして集める」
「実験かよ」
「科学研究部ですから」
久遠は少しだけ、楽しそうに笑った。
ほんの一瞬だけ。
「安心してください」
「何が」
「人体実験はしません」
「余計怖いわ」
部室に、いつもの放課後の空気が戻る。
軽口を叩いているはずなのに、どこか張り詰めている。
「相澤くん」
「なに」
「昨日の件、感謝はしてます」
「……どういたしまして」
その一言が、妙に胸に残った。
「でも」
「でも?」
「次に同じことが起きたら」
「起きたら?」
「その時は、ちゃんと説明してください」
俺は答えなかった。
説明できる気がしない。
勘は、理屈じゃない。
でも――昨日から、確かに何かが変わり始めている。
窓の外では、夕焼けが校舎を赤く染めていた。
放課後は、まだ平穏だ。
少なくとも、今は。
ただ、俺の中の“何か”が、静かに動き始めているのを感じていた。
昨日忘れてました。




