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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
1.まだ普通のはずの日常

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収束という言葉

放課後の科学研究部は、今日は空気が違っていた。窓は閉め切られ、カーテンが半分だけ下ろされている。夕方の橙色の光が遮られ、蛍光灯の白さだけがやけに際立っていた。埃の匂いと、古い紙とインクの混じった部室特有の空気が、いつもより濃い。ホワイトボード一面に走る数式、矢印、円、時系列の線。

……多い。

俺は入口で立ち止まった。


「……なあ」


久遠は背を向けたまま、マーカーを動かしていた。


「これ、部活だよな」

「はい」


即答だった。


「研究活動です」

「圧がすごい」


机の上にはノートが三冊、タブレットが二台、印刷された論文の束。紙の端には赤ペンでびっしりと書き込みが走っている。文化部というより、大学の研究室だ。


「今日のテーマは?」

「仮説の精緻化です」

「日本語で」

「事故の偏りの解析」


嫌な単語しか並ばない。久遠はホワイトボードの中央に円を描いた。


「この点群が、ここ数週間の小規模事故」


周囲に点を打っていく。


「滑倒、器具落下、転倒未遂、接触事故」

「……未遂ばっかだな」

「あなたが介入した場合は、です」


胸の奥が少しだけ冷えた。さらに中央に、太く丸。


「そしてここ」


名前が書かれる。

――久遠理沙。


「発生位置が、一定方向に寄っています」

「……寄ってるって」

「ランダムではない、という意味です」


線が引かれる。点から点へ、少しずつ中心に近づいていく。


「統計処理をすると、偏差が縮んでいます」

「偏差……」

「事故地点のばらつきです」


俺は腕を組んだ。


「それってつまり」

「はい」


久遠は一拍も置かずに言った。


「集中しています」


嫌な沈黙が落ちた。


「確率の収束、という言葉があります」


久遠は振り返り、こちらを見る。


「本来は、試行回数を重ねることで平均値が理論値に近づく現象です」

「数学でやったな」

「大数の法則です」


ホワイトボードの端に簡単な式を書く。


「しかし、これは異なります」


その式を斜線で消した。


「ランダム事象が均されるのではなく、危険事象が空間的に集約されている」

「……一点に」

「向かっています」


喉が乾いた。


「自然現象か?」

「現行の物理理論では説明困難です」

「即答だな」

「ですが、完全否定もできません」

「どっちだよ」

「不明、が正確です」


ホワイトボード中央。丸で囲まれた久遠の名前。その外側に小さく書かれた俺。


「……俺は?」


久遠は一瞬だけ止まった。


「外乱項です」

「ひどい」

「統計的には重要な存在です」

「慰めになってない」


久遠はノートをめくった。


「あなたが介入したケースでは、負傷率が極端に低下しています」

「……それ」

「あなたが立ち止まらせた。引き寄せた。位置をずらした」


ページを指で叩く。


「その瞬間、事故確率が再分散しています」


背中がぞわりとした。


「でも」


俺は言った。


「今日は何も起きてない」

「はい」

「だったら進んでないんじゃないか」

「逆です」

「……は?」

「蓄積期間の可能性があります」


久遠は別の図を描いた。波形。小さな揺れ。

そして急激な跳ね上がり。


「大地震の前に微小地震が増える現象と似ています」

「縁起でもない」

「例えです」

「やめろ」

「エネルギーは消えていません」

「ただ、今は放出されていないだけです」


俺は黙った。


「……相澤くん」


久遠は少しだけ声を落とした。


「私は、自分が中心だと考えています」

「……」

「仮説ですが」

「仮説多すぎだろ」

「今のところ、最も説明力があります」


俺はホワイトボードを見た。

矢印。集中。久遠。


「……なあ」

「はい」

「俺、毎日一緒にいればいいのか」


久遠は少し考えた。


「観測上は、有効です」

「言い方」

「合理的です」


帰り道。

俺は自然と久遠より半歩前を歩いていた。

信号。踏切。何も起きない。

……今日は。

その“今日は”が、妙に薄っぺらい。

家に帰っても、ホワイトボードの図が離れなかった。

中心。収束。外乱項。

……外乱で止められる話なのか。

布団に入ってからも眠れない。天井を見つめながら、今日一日を思い返す。事故はなかった。けれど、数字は確実に悪くなっている。何も起きていないこと自体が、怖い。スマホが震えた。久遠からだ。


【今日のまとめ、送ります】

【いらない】

【送りました】


即行でPDFが届いた。開かずに画面を伏せる。

……今は見たくなかった。


街は静かだ。車は走り、人は歩く。平穏な夜。でも、どこかで歪みが積み上がっている。見えない力が、少しずつ、確実に。久遠のいる一点へ――。

次話から2章に突入します

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