収束という言葉
放課後の科学研究部は、今日は空気が違っていた。窓は閉め切られ、カーテンが半分だけ下ろされている。夕方の橙色の光が遮られ、蛍光灯の白さだけがやけに際立っていた。埃の匂いと、古い紙とインクの混じった部室特有の空気が、いつもより濃い。ホワイトボード一面に走る数式、矢印、円、時系列の線。
……多い。
俺は入口で立ち止まった。
「……なあ」
久遠は背を向けたまま、マーカーを動かしていた。
「これ、部活だよな」
「はい」
即答だった。
「研究活動です」
「圧がすごい」
机の上にはノートが三冊、タブレットが二台、印刷された論文の束。紙の端には赤ペンでびっしりと書き込みが走っている。文化部というより、大学の研究室だ。
「今日のテーマは?」
「仮説の精緻化です」
「日本語で」
「事故の偏りの解析」
嫌な単語しか並ばない。久遠はホワイトボードの中央に円を描いた。
「この点群が、ここ数週間の小規模事故」
周囲に点を打っていく。
「滑倒、器具落下、転倒未遂、接触事故」
「……未遂ばっかだな」
「あなたが介入した場合は、です」
胸の奥が少しだけ冷えた。さらに中央に、太く丸。
「そしてここ」
名前が書かれる。
――久遠理沙。
「発生位置が、一定方向に寄っています」
「……寄ってるって」
「ランダムではない、という意味です」
線が引かれる。点から点へ、少しずつ中心に近づいていく。
「統計処理をすると、偏差が縮んでいます」
「偏差……」
「事故地点のばらつきです」
俺は腕を組んだ。
「それってつまり」
「はい」
久遠は一拍も置かずに言った。
「集中しています」
嫌な沈黙が落ちた。
「確率の収束、という言葉があります」
久遠は振り返り、こちらを見る。
「本来は、試行回数を重ねることで平均値が理論値に近づく現象です」
「数学でやったな」
「大数の法則です」
ホワイトボードの端に簡単な式を書く。
「しかし、これは異なります」
その式を斜線で消した。
「ランダム事象が均されるのではなく、危険事象が空間的に集約されている」
「……一点に」
「向かっています」
喉が乾いた。
「自然現象か?」
「現行の物理理論では説明困難です」
「即答だな」
「ですが、完全否定もできません」
「どっちだよ」
「不明、が正確です」
ホワイトボード中央。丸で囲まれた久遠の名前。その外側に小さく書かれた俺。
「……俺は?」
久遠は一瞬だけ止まった。
「外乱項です」
「ひどい」
「統計的には重要な存在です」
「慰めになってない」
久遠はノートをめくった。
「あなたが介入したケースでは、負傷率が極端に低下しています」
「……それ」
「あなたが立ち止まらせた。引き寄せた。位置をずらした」
ページを指で叩く。
「その瞬間、事故確率が再分散しています」
背中がぞわりとした。
「でも」
俺は言った。
「今日は何も起きてない」
「はい」
「だったら進んでないんじゃないか」
「逆です」
「……は?」
「蓄積期間の可能性があります」
久遠は別の図を描いた。波形。小さな揺れ。
そして急激な跳ね上がり。
「大地震の前に微小地震が増える現象と似ています」
「縁起でもない」
「例えです」
「やめろ」
「エネルギーは消えていません」
「ただ、今は放出されていないだけです」
俺は黙った。
「……相澤くん」
久遠は少しだけ声を落とした。
「私は、自分が中心だと考えています」
「……」
「仮説ですが」
「仮説多すぎだろ」
「今のところ、最も説明力があります」
俺はホワイトボードを見た。
矢印。集中。久遠。
「……なあ」
「はい」
「俺、毎日一緒にいればいいのか」
久遠は少し考えた。
「観測上は、有効です」
「言い方」
「合理的です」
帰り道。
俺は自然と久遠より半歩前を歩いていた。
信号。踏切。何も起きない。
……今日は。
その“今日は”が、妙に薄っぺらい。
家に帰っても、ホワイトボードの図が離れなかった。
中心。収束。外乱項。
……外乱で止められる話なのか。
布団に入ってからも眠れない。天井を見つめながら、今日一日を思い返す。事故はなかった。けれど、数字は確実に悪くなっている。何も起きていないこと自体が、怖い。スマホが震えた。久遠からだ。
【今日のまとめ、送ります】
【いらない】
【送りました】
即行でPDFが届いた。開かずに画面を伏せる。
……今は見たくなかった。
街は静かだ。車は走り、人は歩く。平穏な夜。でも、どこかで歪みが積み上がっている。見えない力が、少しずつ、確実に。久遠のいる一点へ――。
次話から2章に突入します




