中心に立つ人間
翌朝は、拍子抜けするほど普通だった。天気は晴れ。風は弱く、通学路に工事もない。信号はすべて規則正しく切り替わり、踏切も静まり返っている。……昨日あれだけ怖い話をしたあとで、これは逆に信用ならなかった。
俺は歩きながら、さりげなく電柱の傾きを見て、マンホールの蓋を踏まない位置を選び、看板の固定金具を横目で確認していた。
「相澤くん」
「はい」
「視線の動きが不審です」
「朝から言うな」
「八時十二分以降、上方確認が六回」
「数えるな」
久遠はいつも通りだ。歩調も乱れないし、スマホを操作しながらでも周囲にぶつからない。その無警戒さが、逆に怖い。
学校でも平穏だった。授業は進み、チャイムは鳴り、教師はチョークを落とさずに板書を終えた。昼休み、俺が弁当を開くと、久遠は資料を印刷していた。
「……まだやるのか」
「検証は続けます」
「もう論文書けるだろ」
「高校生です」
「残念」
部室に入ると、昨日のホワイトボードは消されていた。……全部。きれいさっぱり。
「……あれ?」
「写真は保存しました」
「消したのか」
「情報漏洩防止です」
「誰にだよ」
「分かりません」
即答だった。今日は机に紙の束が積まれている。地図。年表。病院名。嫌な予感しかしない。
「これ何」
「過去十年分の市内事故記録です」
「範囲広すぎだろ」
「最初は広く取ります」
俺は椅子に座り、紙を一枚引き寄せた。市内の事故件数推移。研究施設関連。搬送数。十数年前の数字が、一箇所だけ跳ねている。
「……この年」
「私が四歳のときです」
さらっと言われて、言葉に詰まった。
「……やっぱり、あの事故か」
久遠は少しだけ目を伏せた。
「ニュースには断片的にしか残っていません」
「覚えてるのか」
「……全部ではありません」
間があった。
「音と光と、煙だけ」
指先で紙の端を押さえながら続ける。
「母が働いていた研究施設です」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……」
「私は一緒に行っていました」
「……おい」
「詳しいことは覚えていません。気がついたら病院でした」
淡々としているけれど、声は少しだけ低い。
「……母親は亡くなったんだよな」
久遠は一度だけ視線を落とした。
「……事故当日です」
部室の時計の秒針が、やけに大きく響いた。
「……それで」
喉を鳴らす。
「それと今の件が、繋がってるかもしれないってことか」
「仮説です」
「仮説多いな」
「でも」
久遠ははっきり言った。
「無関係だとは思えません」
「偶然じゃ――」
「統計的には薄いですね」
少し言い直す。
「……薄すぎます」
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。黒板を追っているはずなのに、視線は窓へ向かう。雲が速い。風が強まっている。途中、一瞬だけ立ちくらみがして、机に手をついたが、誰にも気づかれなかった。
放課後。
部室は妙に冷えていた。久遠は制服のまま書類を広げている。新聞の切り抜き。市の事故報告書。病院の統計データ。量が多すぎる。
「それ、全部昨夜揃えたのか?」
「昨日の夜と今朝です」
「睡眠削るな」
「非効率ですが必要です」
俺は端の資料を取った。
《二〇〇九年十二月 市内研究施設にて事故》
負傷者は複数名。施設名は伏字。
「……これ?」
「はい。昼休みに話した、私が四歳の年に経験した事故の資料です」
胸の奥が沈む。
「時刻は午後三時十二分。搬送先は市立中央病院」
「覚えてるのか」
「いえ。記録と一致しただけです」
静かすぎる声だった。
「……断片的には」
「どんな」
「白い天井。サイレン。母の声」
一拍。
「それと、ガラスの割れる音」
俺は何も言えなかった。
「この事故、変なんです」
久遠は別の資料を差し出す。
「当日の救急搬送件数が通常の三倍。市の報告と合いません」
ホワイトボードには地図が描かれていた。過去の事故地点。最近の未遂地点。
円。狭まっている。
まるで、的を絞るみたいに。
「中心が……」
「私です」
即答だった。
俺は息を吐く。
「逃げる気ないのか」
「逃げても分布は変わらない可能性が高いです」
そのときだった。
頭の奥が締めつけられる。視界が一瞬揺れた。
「……っ」
机に手をつく。
「相澤くん?」
鼻の奥に、薬品の匂いが残る。耳鳴りの向こうで、誰かの叫び声が重なった。俺の記憶じゃない。なのに、やけに生々しい。
「……この事故」
ゆっくり言う。
「終わってない気がする」
久遠のペンが止まった。
「根拠は?」
「勘」
「禁止です」
即返されたが、否定もしなかった。
夕方。二人で帰る。風が強い。
「……昔のこと、深掘りすぎでしょうか」
珍しい弱音だった。
「……いや、詳しく探ろう」
「止められるなら止める」
「合理的ではありません」
「知ってる」
夜。ベッドに倒れ込みながら考える。研究施設。伏せられた記録。増える未遂。久遠へ向かう分布。
四歳で終わったはずの事故。……本当に?
胸の奥が鳴った。
まだ続いている。
確実に。




