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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
1.まだ普通のはずの日常

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17/36

静かな日は信用できない

朝の駅前は相変わらず混んでいた。改札で人が詰まり、ホームでは学生と会社員が列を作っている。アナウンスは通常運転。電光掲示板も遅延表示なし。俺は歩きながら天井の梁を見上げた。


「相澤くん」

「はい」

「首、痛めますよ」

「俺の心配それだけ?」

「十分です」


雑すぎる。階段を降りながら、俺は手すりを撫でた。


「何してるんですか」

「点検」

「駅員にでもなったんですか」

「いや……クセ」

「悪癖ですね」


ひどい。

一限目は現代文の授業だった。

先生は、黒板消しを落とし、チョークの粉をスーツに盛大に付けていた。


「……あ」


クラスがざわつく。


「今日の先生、粉塵多めですね」


久遠が小声で言う。


「そこ統計取ってないよな」

「観測対象外です」

「今すぐ入れてやれ」


昼休み。

俺が弁当を開けると、久遠はスマホを操作していた。


「今日の市内救急搬送件数」

「聞いてない」

「平年比マイナス三です」

「むしろ良いニュースじゃん」

「……不自然です」

「台無しにするな」


久遠は唐揚げを一口。


「久遠」

「はい」

「今日は俺、何も回避してないよな」

「はい」

「止まってもないよな」

「二回ほど足を止めました」

「覚えがない」

「自販機の前と掲示板の前です」

「それは事故回避じゃなくてただの迷子だ」

「分類に困ります」


放課後。

科学研究部の部室はやけに静かだった。今日は実験器具も出ていない。机の上には紙コップとクッキー。誰かが買ってきたらしい。


「実験しないのか」

「来週です」

「来週多いな」


久遠はホワイトボードを消しながら言った。


「今日は雑談枠です」

「部活で言うな」

「精神安定のため」

「科学研究部のすることか?」

「はい」


即答。

窓は開いていて、風が白衣の袖を揺らしている。夕焼けが机の端に差し込み、埃が光って見えた。久遠はホワイトボードの前に立ち、ペンをくるくる回している。


「今日は事故ゼロでした」

「言い方」

「事実です」


俺は椅子に座り、紙コップの麦茶を飲む。


「つまり?」

「私の仮説が、間違っている可能性もあります」

「急に弱気だな」

「科学者は常に疑います」


ホワイトボードに円を描き、その周囲に小さな点を打つ。


「仮にですが。大事故の前に、小規模な異常が頻発するケースはあります」

「地震の前の前震みたいな?」

「はい。ストレス解放型イベント」

「名前がもう怖い」

「ですが今日は、それすら起きていません」


ペンを止める。


「……嵐の前の静けさ、という表現もあります」

「やめろ」


俺は即言った。久遠が一瞬だけ口元を緩める。


「冗談です」

「今の間、0.2秒あったぞ」

「余韻です」


俺は腕を組む。


「じゃあ今日ってさ」

「はい」

「世界がめちゃくちゃ優しかっただけじゃね?」

「否定できません」

「素直だな」

「否定できないことは否定しません」


外から吹奏楽部の音が聞こえる。誰かが階段を走る音。窓の向こうでカラスが鳴いた。平和すぎる。久遠がぽつりと言った。


「……こういう日が続けばいいんですが」

「珍しく感情入ってるな」

「感情ではありません」

「希望だろ」

「……定義が難しいですね」


俺は天井を見た。蛍光灯。問題なし。


「久遠」

「はい」

「もし全部俺の思い込みだったらどうする」

「その場合」


少し考える。


「私は謝ります」

「それだけ?」

「焼肉をご馳走します」

「本気か」

「はい」

「よし、外れろ」

「相澤くん」

「なに」

「外れる前提で期待しないでください」

「夢見させろ」


ホワイトボードを消しながら、久遠はぽつりと言った。


「でも」

「ん」

「あなたの警戒、今日は無駄ではありませんでした」

「……なに」

「危険がなかっただけで、観測値は正常でした」

「意味分からん」

「正常に戻ったという意味です」

「それ怖いやつだろ」

「はい」


即答。

部室を出るころには、空はすっかり橙色だった。廊下は静かで、窓に夕日が反射している。久遠は何事もなかったように歩いている。俺だけが、やたらと周囲を気にしていた。

……ほんとに今日は何もない。


それが一番不安って、どういう状態だ。家に帰ってからも、俺は一応警戒していた。風呂場の床。天井。ベランダ。特に異常なし。なんで俺、こんな生活してるんだ。スマホが鳴る。


【今日は何も起きませんでしたね】


久遠から。


【珍しいな】

【少し物足りません】

【物足りないって言うな】

【冗談です】


0.3秒遅い。ベッドに寝転がって天井を見る。今日は久遠の笑顔も見たし、犬も可愛かったし、先生は粉まみれだった。たぶん大丈夫だ。

……たぶん。

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