静かな日は信用できない
朝の駅前は相変わらず混んでいた。改札で人が詰まり、ホームでは学生と会社員が列を作っている。アナウンスは通常運転。電光掲示板も遅延表示なし。俺は歩きながら天井の梁を見上げた。
「相澤くん」
「はい」
「首、痛めますよ」
「俺の心配それだけ?」
「十分です」
雑すぎる。階段を降りながら、俺は手すりを撫でた。
「何してるんですか」
「点検」
「駅員にでもなったんですか」
「いや……クセ」
「悪癖ですね」
ひどい。
一限目は現代文の授業だった。
先生は、黒板消しを落とし、チョークの粉をスーツに盛大に付けていた。
「……あ」
クラスがざわつく。
「今日の先生、粉塵多めですね」
久遠が小声で言う。
「そこ統計取ってないよな」
「観測対象外です」
「今すぐ入れてやれ」
昼休み。
俺が弁当を開けると、久遠はスマホを操作していた。
「今日の市内救急搬送件数」
「聞いてない」
「平年比マイナス三です」
「むしろ良いニュースじゃん」
「……不自然です」
「台無しにするな」
久遠は唐揚げを一口。
「久遠」
「はい」
「今日は俺、何も回避してないよな」
「はい」
「止まってもないよな」
「二回ほど足を止めました」
「覚えがない」
「自販機の前と掲示板の前です」
「それは事故回避じゃなくてただの迷子だ」
「分類に困ります」
放課後。
科学研究部の部室はやけに静かだった。今日は実験器具も出ていない。机の上には紙コップとクッキー。誰かが買ってきたらしい。
「実験しないのか」
「来週です」
「来週多いな」
久遠はホワイトボードを消しながら言った。
「今日は雑談枠です」
「部活で言うな」
「精神安定のため」
「科学研究部のすることか?」
「はい」
即答。
窓は開いていて、風が白衣の袖を揺らしている。夕焼けが机の端に差し込み、埃が光って見えた。久遠はホワイトボードの前に立ち、ペンをくるくる回している。
「今日は事故ゼロでした」
「言い方」
「事実です」
俺は椅子に座り、紙コップの麦茶を飲む。
「つまり?」
「私の仮説が、間違っている可能性もあります」
「急に弱気だな」
「科学者は常に疑います」
ホワイトボードに円を描き、その周囲に小さな点を打つ。
「仮にですが。大事故の前に、小規模な異常が頻発するケースはあります」
「地震の前の前震みたいな?」
「はい。ストレス解放型イベント」
「名前がもう怖い」
「ですが今日は、それすら起きていません」
ペンを止める。
「……嵐の前の静けさ、という表現もあります」
「やめろ」
俺は即言った。久遠が一瞬だけ口元を緩める。
「冗談です」
「今の間、0.2秒あったぞ」
「余韻です」
俺は腕を組む。
「じゃあ今日ってさ」
「はい」
「世界がめちゃくちゃ優しかっただけじゃね?」
「否定できません」
「素直だな」
「否定できないことは否定しません」
外から吹奏楽部の音が聞こえる。誰かが階段を走る音。窓の向こうでカラスが鳴いた。平和すぎる。久遠がぽつりと言った。
「……こういう日が続けばいいんですが」
「珍しく感情入ってるな」
「感情ではありません」
「希望だろ」
「……定義が難しいですね」
俺は天井を見た。蛍光灯。問題なし。
「久遠」
「はい」
「もし全部俺の思い込みだったらどうする」
「その場合」
少し考える。
「私は謝ります」
「それだけ?」
「焼肉をご馳走します」
「本気か」
「はい」
「よし、外れろ」
「相澤くん」
「なに」
「外れる前提で期待しないでください」
「夢見させろ」
ホワイトボードを消しながら、久遠はぽつりと言った。
「でも」
「ん」
「あなたの警戒、今日は無駄ではありませんでした」
「……なに」
「危険がなかっただけで、観測値は正常でした」
「意味分からん」
「正常に戻ったという意味です」
「それ怖いやつだろ」
「はい」
即答。
部室を出るころには、空はすっかり橙色だった。廊下は静かで、窓に夕日が反射している。久遠は何事もなかったように歩いている。俺だけが、やたらと周囲を気にしていた。
……ほんとに今日は何もない。
それが一番不安って、どういう状態だ。家に帰ってからも、俺は一応警戒していた。風呂場の床。天井。ベランダ。特に異常なし。なんで俺、こんな生活してるんだ。スマホが鳴る。
【今日は何も起きませんでしたね】
久遠から。
【珍しいな】
【少し物足りません】
【物足りないって言うな】
【冗談です】
0.3秒遅い。ベッドに寝転がって天井を見る。今日は久遠の笑顔も見たし、犬も可愛かったし、先生は粉まみれだった。たぶん大丈夫だ。
……たぶん。




