つかの間の日常
放課後の科学研究部は、今日は異様に平和だった。
風も吹かない。物は落ちない。誰も滑らない。天井から何か降ってくる気配もない。
……逆に怖い。
部室の椅子に座りながら、俺は周囲を一応見回した。棚は安定している。ビーカーも並んだまま。換気扇も静かに回っている。
「……今日は何も起きませんね」
ぽつりと呟くと、久遠が顔を上げた。
「統計的に見れば、むしろ正常です」
「今までが異常だったってこと?」
「はい」
即答だった。
その隣で、鷹宮環がホワイトボードに向かってペンを走らせている。今日は生徒会の仕事が早く終わったらしく、制服のまま腕まくりしていた。
「小規模事象の集中期間が終わった可能性もあるね」
「集中期間……」
「台風前に気圧が変わるみたいなやつ」
「例えが雑ですね」
久遠が即座に突っ込む。
「雑だけど分かりやすいでしょ」
「気象現象と都市事故分布を同列に扱うのは乱暴です」
「理系の悪い癖出た」
「部長も理系でしょう」
「私は経営寄り理系」
謎の分類だった。俺はそのやり取りを聞きながら、机の上のノートを指さした。
「で、今日は観測なし?」
「記録は継続しています」
「じゃあ観測じゃん」
「今日は“考察”の日です」
久遠はホワイトボードの横に立ち、別のペンを取った。
「事故未遂の件数は減少しています」
線グラフを描く。山になっていた部分が、ここ二日でなだらかに下がっている。
「嵐の前の静けさ的な?」
「比喩としては嫌いですが……可能性はあります」
「否定しないんだ」
「否定できる材料がありません」
鷹宮が頷いた。
「溜めてる感じはするよね」
「……何をですか」
「確率」
さらっと言う。久遠が一瞬だけペンを止めた。
「まだ、それを定義するには早いです」
「そっか。じゃあ“偏り”」
「それなら認めます」
妙な線引きだった。俺は椅子の背にもたれる。
「今日は平和でいいだろ。ずっとこれで」
「願望はデータになりません」
「現実逃避くらい許せ」
「許可しません」
「厳しすぎだろ」
鷹宮が吹き出した。
「君らほんと相性いいね」
「悪いです」
「悪い」
同時だった。
「ほら」
「「ほらじゃない(です)」」
しばらくして、鷹宮がコンビニ袋を机に置いた。
「差し入れ」
「神ですか」
「ポイント消化」
中から紙パックのジュースとスナック菓子が出てくる。
「……部活中に飲食は」
「今日は実験してないからセーフ」
「誰が決めたんですか」
「部長」
「……」
久遠は一拍沈黙してから、ストローを刺した。
「……記録します」
「そこまで?」
「例外は例外として残します」
「何の役にも立たなさそうなデータだな」
「未来の自分が困らないためです」
怖い。俺はスナック菓子を開けながら聞いた。
「なあ久遠」
「なんですか」
「もしさ……このまま何も起きなかったらどうする」
「その場合は、私の仮説が間違っていたことになります」
「……それでいいのか」
「構いません」
即答だった。でも、視線はホワイトボードの線に戻っている。
「間違いだったなら、それで安心できます」
その声は、少しだけ硬かった。鷹宮が横目で久遠を見る。
「でもまあ」
軽い調子で続ける。
「君が調べ始めてから、都市の事故分布は明らかに変わってる」
「……そうですね」
「怖くない?」
久遠は少し考えた。
「怖いですが」
一拍。
「無視する方が、もっと怖いです」
俺は何も言えなかった。その日、部室で危険なことは一切起きなかった。
誰も転ばず、何も落ちず、風も吹かず、床は乾いたまま。
完璧な平穏。なのに。帰り際、靴を履きながら、俺は胸の奥に小さな引っかかりを感じていた。
今日は止まらなかった。立ち止まらなかった。回避もしなかった。それが、正しいのかどうか。
「……なあ」
久遠が顔を上げる。
「なんですか」
「今日さ」
「はい」
「……逆に怖くないか」
久遠は少しだけ考えた。
「……少しだけ」
それだけだった。校舎の外は静かで、夕焼けが街を染めている。
何事もない一日。けれど俺は、はっきり分かっていた。
こういう日は――
長く続かない。




