嵐の前の統計
朝は静かすぎるほどだった。風はなく、雲は高い。鳥の鳴き声がやけに澄んで聞こえる。
……静かすぎる。
ここ最近、嫌な予感が当たることが多すぎて、逆に何も起きない朝が不安になる。
靴紐を結び直し、ポケットのスマホを確かめる。時間は余裕。なのに歩幅は小さい。
久遠はいつも通り半歩前。背中を見ながら、俺は距離を一定に保つ。追い越さない。離れない。
自分でも変だと思うくらい慎重だ。通学路では何も起きなかった。信号も、車も、工事現場も、静まり返っている。
……静かすぎる。
昼休み。
科学研究部の机は、もはや実験台というより作戦会議室だった。
プリントアウトされた事故統計。校内見取り図。赤い付箋が増殖している。
「……増えてるな」
俺が言うと、久遠はペンを止めなかった。
「発生件数は横ばいです」
「じゃあ――」
「“未遂”が増えています」
指先がグラフをなぞる。
「転倒未遂。接触寸前。落下物。突風。ブレーキ音。機械停止直前」
淡々としているのが逆に怖い。
「大事故には至っていない。でも――」
久遠は一瞬だけ言葉を選んだ。
「偶然の密度が、上がっています」
「……地震の前の群発みたいな?」
「近いですね」
即答だった。
「歪みが解消される前兆として、小さな事象が集中するケースがあります」
俺は喉を鳴らす。
「それって――」
「嵐の前の静けさです」
さらっと言ったのに、背中が冷えた。
放課後。
部室には珍しく三人いた。鷹宮環はホワイトボードの前で腕を組んでいる。
「つまり」
赤ペンで丸を書いた。
「事故が“起こらなかった”回数が多すぎる」
「……成功例じゃないんですか」
俺が言うと、鷹宮は肩をすくめる。
「普通はね。でも」
久遠を見る。
「君の周囲だけ、異常に未遂が多い」
久遠は小さく頷いた。
「中心から半径が縮んでいます」
「中心?」
「……私です」
空気が沈む。鷹宮は少しだけ眉を寄せた。
「断定はしない。でも――」
ホワイトボードに矢印を引く。
「収束傾向はある」
その言葉が重かった。
帰り道。
夕方の空は不穏なほど穏やかだった。
久遠が言う。
「今日は……止められすぎています」
「それ文句か」
「観測結果です」
横目で俺を見る。
「あなたの回避率、上がりすぎです」
「……悪いことかよ」
「良いです。ただ――」
少しだけ声が低くなる。
「代償があるなら、困ります」
胸の奥がざわついた。
「代償?」
「能力使用と身体反応の相関は、まだ取れていません」
……いやな言い方をする。
家に帰ってから、頭痛がした。
軽い。
でも、いつもより長い。風呂の鏡の中で自分の目を見る。
少し赤い。
……気のせいだ。
そう思いたいのに、胸の奥がひりつく。その夜、久遠から短いメッセージが来た。
【今日の回避、三件】
【明日まとめます】
数字で送ってくるな。
【無理すんな】と打ちかけて消す。
代わりに。
【了解】
それだけ送った。布団の中で考える。事故は減ってない。起きていないだけだ。
まるで、
何かが――
本命のために溜め込んでいるみたいに。俺は目を閉じた。静かな夜だった。
……静かすぎるほど。




