収束点は動かない
朝から胸の奥がざらついていた。
昨日の出来事を思い返すたび、感覚だけが先に浮かぶ。風。金属音。斜面。掴んだ腕。夢だったと言い切れない。家を出る。空は明るい。雲は薄い。風も弱い。完璧すぎる朝だ。
……信用ならない。
視線が勝手に上を追う。電柱、看板、屋根の端。危険源を数えている自分に気付いて、舌打ちした。
駅前で久遠と合流する。歩幅は自然と揃った。
「今日は警戒しすぎですね」
「お前のせいだ」
「合理的判断です」
交差点。青信号。
二人とも止まる。
「……赤になるまで待ちましょう」
「だな」
学校に着くまで、派手な事故は起きなかった。それが一番怖い。
昼休み。
科学研究部の部室で、久遠はホワイトボードの前に立っていた。地図。時間軸。折れ線グラフ。
「……これ、全部今週か」
俺が言うと、久遠は頷いた。
「はい。校内外の軽微事故、遅延、設備不良、救急要請の件数です」
「死人はいないよな」
「今のところは」
“今のところ”。
その言い方が、嫌だった。久遠はタブレットを操作し、別のグラフを表示した。
「発生頻度が指数関数的に上昇しています。致命的事象は回避されていますが……分布が収束しています」
「収束?」
「一点に、です」
チョークで丸を描く。中心。
「……私」
息が詰まった。
「仮説段階です。ですが、私の移動経路と重なりすぎています」
「俺の能力のせいじゃないのか」
「あなたが介入しているにもかかわらず、です」
胸が冷えた。止めているのに。助けているのに。なのに、消えない。
むしろ――濃くなっている。
「……エネルギー保存みたいなものか」
俺が言うと、久遠はわずかに目を細めた。
「その比喩は近いかもしれません」
外で風が鳴った。窓がかすかに揺れる。その瞬間、胸の奥が跳ねた。
――来る。
「久遠」
「はい」
「今日は早めに帰ろ」
「珍しいですね」
「嫌な予感が――」
言い切る前に、突風が吹いた。連絡通路のガラス窓が、悲鳴みたいな音を立てる。次の瞬間だった。
バンッ!!
爆ぜるような音。強化ガラスの一枚が、蜘蛛の巣状に砕け、フレームごと内側に倒れ込んだ。破片が舞う。
「……っ!」
久遠が反射的に振り返る。その身体が、ガラスの射線上にあった。時間が引き延ばされた。
光る破片。風圧。床へ落ちる影。
俺は走った。考えていなかった。理由もなかった。ただ、胸の奥の重さだけが命令していた。
抱き寄せる。肩を引く。身体ごと床に倒れ込む。背中に衝撃。次の瞬間、破片が頭上を掠めて壁に突き刺さった。ガシャガシャと音を立てて、床に散る。
「……っ」
久遠の声。腕の中で、震えている。
「大丈夫か」
「……額、切れました」
血がにじんでいた。
直撃していたら――。
想像を打ち切る。教師の怒号と悲鳴が飛ぶ。数分後には保健室だった。
ベッドに座らされ、消毒液の匂いが広がる。久遠は眉を寄せながらも、声は冷静だった。
「風速、計測値より高いです」
「今それ言うか」
「破断角度も不自然です」
俺は黙った。包帯が巻かれる。
ガラスの破片は、もしあと数センチずれていたら――。
「……完全回避ではありませんでしたね」
久遠が言った。
「死因候補は排除しました。でも、別の形で近づいてきています」
「……俺が止めたのに」
「ええ。だから問題なんです」
視線が、こちらを見る。
「減っていない。むしろ……密度が上がっています」
胸の奥が、重く沈む。放課後の校舎は、何事もなかったように静かだった。
立ち入り禁止のテープ。
割れたガラス。でも、生徒たちは普通に歩いている。
嵐の前の海みたいに。
「相澤くん」
「なに」
「次は……もっと危ないかもしれません」
「……分かってる」
「私の方が、です」
その言い方が、怖かった。帰り道、俺は久遠より半歩前を歩いた。
無意識に。
止める準備をするみたいに。その夜、久遠からメッセージが来た。
【平気です】
短い。
【でも、次はデータが揃います】
嫌な言葉だった。画面を閉じる。胸の奥の感覚は、消えなかった。止めたはずなのに。確率は、逃げ道を変えただけだ。
――そして、確実に久遠へ向かっている。




