収束点
朝の空は曇っていた。
薄い雲が空を覆い、日差しは拡散している。影がぼやけ、建物の輪郭が少しだけ溶けて見える。こういう日は、なぜか胸の奥が落ち着かない。家を出た瞬間、その感覚が来た。
……来る。
何が、とは分からない。ただ、今日も何かが起きる。そんな確信めいた予感だけが、身体の奥に沈んでいる。靴紐を結び直す。ほどけていないのに、もう一度。ポケットのスマホで時刻を確認する。余裕はある。それでも歩幅は自然と小さくなった。通学路を歩く。アスファルトのひび割れ、電柱の影、曲がり角の自販機。昨日までなら意識もしなかった景色を、今日はひとつずつ確認するように目で追っている。
久遠は半歩前を歩いていた。背中のライン。揺れる髪。何も変わらない登校風景。
……なのに。
交差点の手前で、足が止まった。理由は分からない。胸の奥がざわついた。ただそれだけ。
その直後、自転車が急停止する音がした。ブレーキが甲高く鳴り、後輪が横滑りする。運転していた学生が舌打ちをしながら足をついた。
……まただ。
少し進んだ先では、工事現場の鉄パイプがトラックの振動でずれる。作業員が慌てて抑え込む。全部未遂。全部、俺が立ち止まった直後。偶然。そう思おうとすると、回数が多すぎる。
教室に着くと、久遠はすでにタブレットを開いていた。画面に細かな文字が並んでいる。
「今日は反応が早いですね」
「言うな」
「記録です」
短いやり取り。
でも、目は冗談を言っていなかった。
昼休み。
久遠は弁当を広げながら、別の端末を操作していた。医療統計の公開データベース。事故発生年ごとのグラフ。
「……まだ調べてるのか」
「ええ」
視線を上げずに答える。
「私が入院した年、市内で起きた事故の一覧です」
喉が詰まった。
「……出てきたのか」
「一部だけです」
指で画面をなぞる。
「事故の詳細は伏せられています。でも、搬送先と時刻は一致します」
「……」
「複数人が同時に運ばれています」
少しだけ間が空いた。
「……研究施設関連が多い」
ぽつりと呟く。
「私、あの時……母の研究所にいました」
胸の奥が沈んだ。
「……そんな話、聞いたことなかったぞ」
「詳しくは覚えていません。四歳でしたから。ただ――白い床と、焦げた匂いと、サイレンの音だけは残っています」
指先が僅かに止まる。
「……気付いたら病院でした」
それ以上は語らなかった。午後の授業はほとんど頭に入らなかった。黒板の文字を追っているつもりなのに、視線は勝手に窓の外へ向かう。雲の流れが速い。風が強まっている。
放課後、科学研究部。
久遠は机いっぱいに紙を広げ、施設名と病院名を線で結んでいた。付箋が貼られ、赤ペンで疑問符が並ぶ。
「……まだ調べてるのか」
「ええ」
「何を」
「私が幼い頃に入院した年の事故記録です」
喉が詰まった。
「……そんなの、急にどうして」
「最近の事象と分布が似ているので」
淡々としているが、目は笑っていない。
「研究施設絡みの事故が、同時期に集中しています」
「……」
「詳細は伏せられているものが多いです」
久遠の言葉が、何度も反芻される。
――集中。
ホワイトボードには地図と時系列の線が引かれていた。
赤い丸が三つ。全部、最近の事故地点。その中央に、青い丸。
「……これ」
俺が指す。久遠は頷いた。
「私の通学経路です」
背中が冷えた。
「まだ仮説段階ですが」
そう前置きしてから続ける。
「発生頻度が、こちら側へ寄っています」
「……俺じゃなくて」
「はい」
間があった。
「私です」
夕方。
校舎裏の通路。斜面沿いのフェンス。下は三メートル以上の落差。風が強い。雲がちぎれるように流れている。俺は少し後ろを歩いていた。スマホで時刻を確認した、その瞬間だった。
胸の奥が、ぞわ、と波打つ。
フェンスの根元。赤茶けた金属部分が、嫌に目についた。
――錆。
久遠のスカートの裾が大きく煽られる。
「……っ」
踏み出した足元で、金属が鳴った。ぎ、と嫌な音。支柱が、わずかに揺れる。
「久遠!!」
叫んだ時には、突風が吹いた。身体を横殴りにする風。久遠の体がフェンス側へ傾く。錆びた金属が、きしむ。
「……!」
走った。腕を掴む。引き寄せる。二人で転がる。直後、支柱の根元から砂利が崩れ落ちた。フェンスが、ほんの数センチ沈む。
……落ちていたら。
久遠は俺の腕を掴んだまま、しばらく動かなかった。
「……構造劣化」
震えを抑えるように、低く言う。
「腐食が進んでいます。風荷重と体重が同時にかかれば……」
言葉が切れる。
「……偶然では処理できません」
視線はフェンスに固定されたままだ。
「踏み出し位置、風速、腐食度合い」
間。
「全部が一致しすぎています」
俺は何も言えなかった。久遠がぽつりと続ける。
「中心……」
そして。
「間違いないなく私です」
寒気がした。
布団に入っても眠れなかった。
湯気。風。久遠の背中。スマホを見る。
【今日はありがとう】
短い。
【一人で帰らないようにします】
胸が詰まる。
【明日、話します】
画面を伏せる。街は平然としている。
……でも。
確率は、確実に――久遠へ向かっている。




