中心の輪郭
朝の空気は澄んでいた。雲は薄く、風も穏やか。ニュースで事故の速報も流れていない。ここ数日の緊張が嘘だったみたいに、街はきちんと機能している。そう思った自分に苦笑しながら、家を出る。通学路のマンホール、自販機の影、電柱の根元。意味もなく目に入るものを確認しているのは、完全に癖になっていた。交差点は青。止まらない。だが一拍遅らせてから踏み出す。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
久遠はいつもの位置――半歩前。制服の背中がやけに目につく。距離が少しでも詰まると、胸の奥がざわついた。途中、自転車が横を抜けた。風圧に反射的に肩を引く。後ろの生徒が怪訝そうな顔をする。……別に危険じゃない。ただ、過敏になっているだけだ。
学校に着くまで、何も起きなかった。……それが余計に不気味だった。
教室では久遠がノートを取っている。俺が座ると、ちらりと視線を投げてきた。
「今日は減速が多いですね」
「やめろ」
「事実です」
即答だった。
授業は頭に入らない。チャイムの音が無駄に大きく響く。窓の外で工事車両が通るだけで、無意識に顔を上げてしまう。
昼休み、屋上に向かう階段の前で一瞬足が止まりかけた。昨日の換気口の件が脳裏をよぎる。
「……どうしました」
「何でもない」
「止まりました」
「数えるな」
「数えます」
放課後、科学研究部。部室には誰もいない。久遠はすでにホワイトボードに向かっていた。
交差点。階段。踏切。昇降口。その横に、小さく日付。さらに赤ペンで丸が描かれている。
それだけじゃない。グラフ。折れ線。時間軸。事故未遂件数。
「……俺の位置ばっかじゃないな」
「はい」
久遠はペンを持ったまま振り返らない。
「あなたの回避点だけでは、説明がつかなくなりました」
「どういう意味だ」
「事故未遂の中心が、動いています」
ホワイトボードに新しい線を引く。円の中心が、昨日より少し右にずれていた。
「……誰に向かって」
「それを調べています」
一拍。
「統計的に、最近は――私の通学経路と重なっています」
心臓が一瞬、跳ねた。
「……久遠」
「断定はしません」
即座に言う。
「でも、無視できない偏りです」
ノートをめくる。数字と時刻の羅列。
「あなたの回避率は九割二分」
「そんな細かく……」
「誤差込みです」
淡々と。
「一方で、私は未遂が増えている」
「……偶然じゃ」
「偶然なら、二人とも同程度に巻き込まれるはずです」
言い切られた。
「違うんです」
久遠は低い声で続ける。
「あなたは中心を踏まない。私は踏みかけている」
喉が鳴る。
「……それって」
「危険です」
短く。
「私が」
空気が張り詰めた。
「久遠、変な結論出すな」
「仮説です」
「怖すぎる仮説だ」
「科学は怖いです」
俺は椅子に腰を下ろした。
「……いつからだ」
「最近です」
即答。
「去年までは、平均的でした」
「調べたのか」
「はい」
さらっと言う。
「あなたの事故が起きた時期と、ほぼ一致します」
胸が詰まる。
「あの時から……?」
「収束が目立ち始めました」
久遠は少しだけ視線を落とした。
「……偶然とは思えません」
沈黙。ペンの先が机を叩く音だけが響く。
「もう一つあります」
「まだあるのか」
「私の過去です」
一瞬、迷ったように唇を噛む。
「幼い頃、研究施設で事故に遭っています」
俺は顔を上げた。
「……初耳だぞ」
「詳細は覚えていません」
淡々としているが、声はわずかに硬い。
「ただ、入院記録だけが残っていました。装置の誤作動……爆発……薬品漏洩。記録が曖昧で」
「……怖」
「ええ」
短く答える。
「それ以来、大きな事故には遭っていません。でも」
一拍。
「私は昔から、“運が悪い”と言われることが多かった」
冗談めかした口調だったが、笑ってはいなかった。帰り道、俺は自然と久遠の半歩前を歩いていた。踏切で止まり、左右を見る。久遠は何も言わない。ただ少しだけ歩調を合わせてくる。
「……守ってるつもりですか」
「……分からん」
「合理的ではありません」
「知ってる」
「でも」
久遠は前を見たまま言った。
「嫌いじゃないです」
心臓に悪い。夜、布団に入っても眠れなかった。今日の言葉が頭から離れない。
――私が踏みかけている。
――研究施設の事故。
もし本当に、中心が久遠なら。
俺は――。
考えるのをやめた。まだ証拠はない。仮説だ。全部。
……でも。
世界の偶然が、あいつの周りに集まっている気がしてならなかった。




