確率収束の定義
放課後の科学研究部は、妙に静かだった。
風が吹くたびに窓が鳴り、蛍光灯の一本がかすかに唸っている。夕日が斜めに差し込み、実験台の金属面を橙色に染めていた。久遠理沙はホワイトボードの前に立っている。白衣の袖をまくり、ペンを持ったまま、しばらく無言で線を引いていた。
交差点。
階段。
昇降口。
踏切。
それぞれに日付と時刻。
さらに、俺と久遠の立っていた位置が丸で示されている。
「……増えてきたな」
俺が言うと、久遠は振り返らずに答えた。
「はい。偶然では説明しづらくなってきました」
「断定はしないんだな」
「科学研究部なので」
さらっと言って、さらに円を描き足す。
「まず整理します。本来の確率論で言う“収束”とは、試行を重ねるほど結果の分布が一定の値に近づくことです」
「コイン投げのやつか」
「はい。表の割合が五割に近づく。測定誤差が真値に寄る。ノイズが平均に集まる」
彼女は一度ペンを止めた。
「つまり、本来は“数値”が一点へ寄る現象です」
それから、交差点の丸を強く囲む。
「でも今、集まっているのは数値ではありません」
「事故、か」
「正確には事故未遂です」
視線が俺に向いた。
「転倒。設備の破損。交通トラブル。種類は違います。でも、時間と場所が偏っている」
ホワイトボードに薄く輪郭を引く。
「偶然なら散ります。発生地点はもっとばらける。でも今は違う。空間的に集中している」
「……だから収束」
「はい。私はこれを“確率収束”と呼んでいます」
少し間を置いてから付け足した。
「正式な学術用語ではありません。あくまで、仮説上の呼び方です」
「便利な名前だな」
「便利じゃないです。怖いです」
即答だった。
久遠は新しい図を描く。
円が三重に重なり、その中央に点。
「さらに分類できます」
「まだあるのか」
「段階です」
淡々と書く。
散乱。
微収束。
局所収束。
強収束。
最後の一つは、書きかけて止めた。
「……?」
「いえ。今はここまでで」
俺は嫌な予感を覚えた。
「今どの辺だ」
「局所収束から、強収束に入りかけています」
喉が少し乾く。
「それ、やばくないか」
「統計的には」
久遠は言葉を選ぶ。
「放置すると、中心がはっきりします」
「中心?」
「事象が最も発生しやすい場所です」
俺を見る。
「あるいは――人」
胸の奥が、きしんだ。
「俺か?」
「断定しません」
即答だった。
「相澤くんの行動は、収束域に入る直前で変化しています。立ち止まる。遠回りする。速度を落とす」
「無意識だけどな」
「それが重要です」
久遠は静かに続けた。
「見えているわけではない。でも、境界に触れる前で逸れている」
「……野生の勘か」
「生理反応の可能性があります」
彼女は俺から視線を外し、自分の丸印を指した。
「ただし」
一瞬、声が低くなる。
「最近は、私の位置も中心に近づいています」
「……は?」
「以前は、相澤くんの周囲だけでした。でも今は二人分が重なっている」
言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかった。
「それって……」
「私が巻き込まれる確率が、上がっている」
さらっと言うが、手は止まっていた。
そこへドアが開いた。
「おー、なんか難しい顔してるね」
鷹宮環だった。資料の束を抱え、いつもの軽い調子で入ってくる。
「研究発表?」
「仮説整理です」
久遠が答える。
「例の動線事故?」
「はい」
「最近多いよなあ。生徒会にも報告上がってる」
俺を見る。
「今日も無事?」
「……今のところは」
「それはよかった」
あっさり言って、資料を机に置く。
「点検増やしてるからさ」
「助かります」
「そりゃどうも」
それだけで、話は切り替わった。
鷹宮は部室を一周してから、ちらっとホワイトボードを見る。
「……丸だらけ」
「気にしないでください」
「逆に気になるんだけど」
軽く笑って去っていった。ドアが閉まる。しばらく沈黙。
「……部長、軽いな」
「知っているからです」
久遠は言った。
「事故は、起きない時ほど溜まります」
「それ、誰の理論だ」
「経験則です」
俺はため息を吐いた。
「つまり、まとめると?」
「今は」
久遠はペンで円をなぞる。
「確率が集まり始めています。しかも、私たちの周囲に」
「……嬉しくねえ」
「同意します」
彼女は俺を見る。
「だから」
少しだけ、声が柔らかくなった。
「一人で動かないでください」
「……そっちこそな」
「合理的です」
「どこが」
「生存率が上がります」
即答だった。
その言葉が、妙に重かった。
帰り道、俺は自然と久遠の半歩前を歩いていた。
踏切の前で止まり、信号を確認する。
久遠は何も言わない。ただ、歩幅を合わせてくる。
世界は平穏だった。車は止まり、人は渡り、空は赤く染まっている。
――なのに。
胸の奥で、何かが静かに寄ってきている気がしてならなかった。ばらばらだったはずの偶然が、
ゆっくりと、一点へ向かって集まっている。それが何なのかは、まだ分からない。
ただ。
中心に立っている気だけは、していた。




