確率収束の近傍
翌朝は、妙に整いすぎていた。天気は晴れ。風は弱く、雲の形も穏やかだ。
ニュースでは事故の速報もない。完璧な平日。昨日までの緊張が嘘みたいに、街は普通の顔をしている。
……それが、逆に信用ならなかった。
玄関を出るとき、靴紐を二度結び直した。ほどけていないのに、だ。ポケットのスマホで時刻を確認する。余裕はある。遅刻の心配もない。それなのに、歩幅が自然と小さくなる。
通学路はいつも通りだった。自転車が横を抜け、犬を散歩させている老人がいて、コンビニの前では学生が溜まっている。危険な匂いはない。……ないはずなのに。
交差点で、足が止まった。理由は分からない。ただ、胸の奥がざわついた。
青信号。久遠は俺の半歩前を歩いている。制服の背中。何の変哲もない朝の光景なのに、その距離が急に気になった。
「……ちょっと待て」
肩に手を伸ばして引き寄せる。
「?……近すぎませんか」
久遠が呟いた、その瞬間だった。左折車線のトラックの陰から原付が顔を出し、急ブレーキを踏む。甲高い音。クラクション。歩行者が足を止める。大事故にはならなかった。けれど、横断歩道の白線ぎりぎり。久遠の立っていた位置から、ほんの数十センチ先だった。背中に冷たい汗が滲む。
「お前、今……」
「私は何もしていませんよ」
淡々としているが、視線は交差点を追っている。信号が赤に変わる。俺は無意識に、久遠より半歩前に出ていた。
学校に着いても、その感覚は消えなかった。昇降口で靴を履き替え終えたとき、胸の奥が一瞬だけざわついた。理由はない。ただ、嫌な感じがした。俺は一歩横にずれた。
直後、後ろを歩いていた生徒が濡れた床で足を滑らせ、俺のいた場所をかすめて転びそうになる。
……今の。
久遠がこちらを見る。
「位置、変えましたよね」
「……気のせいだろ」
「記録します」
昼休み、屋上へ向かう階段。久遠が先に上る。嫌な予感がして、俺は一段下で止まった。
「相澤くん?」
答える前に、金属音。ネジが一本、床を跳ねた。換気口のカバーがわずかにずれる。久遠が足を止め、天井を見上げた。
「……落ちましたね」
「……だな」
もし、俺が止まらなかったら。もし、久遠がそのまま進んでいたら。
考えるのをやめた。
科学研究部の部室で、久遠はホワイトボードに線を引いていた。交差点、昇降口、階段。すべてに時刻が添えられている。俺の位置だけじゃない。久遠の立っていた場所にも、小さな丸がついていた。
「……自分の動線も書いているんだな」
「当然です」
さらっと言う。
「あなたの周囲で起きている以上、私が無関係だとは限りません」
胸が詰まる。
「まだ仮説段階ですが」
言葉を選ぶ。
「発生地点が、徐々にこちらへ寄っています」
「こちら?」
「二人まとめて、です」
そこへドアが開いた。
「今日、校内ざわついてるね」
鷹宮環だった。資料の束を抱えている。
「屋上の換気口、立ち入り禁止」
「確認しました」
久遠が答える。
「朝、交差点も危なかったらしいじゃん」
「……はい」
「君たち、通ってた?」
「通ってました」
鷹宮は一瞬だけ俺たちを見る。
「無事で何より」
軽い調子だった。
「最近多いんだよ。こういうの」
「たまたま重なってるだけかもだけどさ」
「点検は回します」
「よろしく」
それで話は終わった。
帰り道、俺は久遠より半歩前を歩いていた。踏切の前で止まり、信号を見る。久遠が首を傾げる。
「今日は慎重ですね」
「……なんとなく」
「禁止です」
そう言いながらも、少し歩幅を合わせてきた。
「相澤くん」
「なに」
「もし、私が先に行こうとしたら」
「……止める」
即答だった。
久遠は一瞬だけ目を瞬かせた。
「理由は?」
「分からん」
「合理的ではありません」
「知ってる」
その夜、ニュースで朝の交差点が映っていた。怪我人なし。奇跡的だった、という言葉が流れる。
……奇跡。
布団に入っても眠れない。朝の光景を何度も思い出す。久遠の背中。止めた一歩。
もし遅れていたら。胸の奥が、ひくりと鳴る。スマホが震えた。久遠からだ。
【明日、放課後に時間ください】
【何かあった?】
少し間が空く。
【仮説を立てます】
短い。けれど、重い。
画面を閉じる。外では車の音がしている。人は歩き、信号は切り替わる。街は何事もない顔をしている。
……でも。
その裏で、何かが少しずつ狂い始めている気がしてならなかった。




