第9話 過去の話をする場所
約束の日は、思っていたよりも早く来た。
〈今週の金曜、少し時間ありますか〉
彼から届いたメッセージは、相変わらず簡潔だった。業務連絡と変わらない文面なのに、画面を閉じたあと、しばらく手が止まった。
〈あります〉
それだけ返すのに、数分かかった。
場所は、会社から少し離れた小さな店だった。騒がしすぎず、静かすぎない。仕事帰りの人が、軽く一息つくための空間。
――過去の話をするには、ちょうどいい曖昧さだった。
先に着いた彼は、奥の席に座っていた。壁際で、人の視線があまり届かない場所。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
向かい合って座る。その距離が、仕事中とは違うことを、二人とも意識していた。
注文を済ませると、沈黙が落ちた。
以前なら、この沈黙はすぐに埋まった。どうでもいい話で、互いの一日を共有していた。でも今は、どちらが最初に踏み出すかを、静かに探っている。
「……無理に来てもらったなら、すみません」
彼が先に口を開いた。
「いえ」
それは本心だった。来ると決めたのは、自分だ。
「話したほうがいいと思って」
そう言うと、彼は小さく頷いた。
「俺も、同じです」
それ以上、すぐには続かなかった。
グラスが運ばれてきて、氷の音が響く。その音に、少しだけ救われる。
「正直に言いますね」
彼が視線を落としたまま言った。
「このまま、何もなかったみたいに仕事を続けるのは……無理でした」
胸の奥が、静かに震えた。
私も、同じだった。気づかないふりをして、距離を保って、それで済むほど、感情は単純じゃない。
「私も」
そう答えると、彼は一瞬だけ目を上げた。
「でも」
私は続ける。
「だからって、すぐにどうこうしたいわけじゃないです」
「分かってます」
即答だった。
「俺も、同じです」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「ただ」
彼は、少し言い淀んでから続けた。
「前のことを、ちゃんと整理しないまま、今に進むのは……違う気がして」
前のこと。
その言葉が出た瞬間、空気が変わった。避けてきた領域に、足を踏み入れる感覚。
「……あのとき」
私が口を開く。
「別れた理由、覚えてますか」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「もちろんです」
忘れたことなんて、一度もない。
「あなたが」
喉が少し詰まる。
「『今は結婚を考えられない』って言った」
事実をなぞるだけなのに、胸が痛む。
「仕事が一番大事で、余裕がなくて、私の人生を引き受ける覚悟がないって」
彼は、何も言わなかった。ただ、視線を逸らさずに聞いている。
「それが正直な気持ちだって、分かってました」
当時も、今も。
「だから、無理に引き止めることもしなかった」
沈黙。
彼が、ゆっくりと息を吐いた。
「……逃げました」
その言葉は、思っていたよりも静かだった。
「好きだったからこそ、引き受けるのが怖かった」
私は、言葉を挟まなかった。続きを待つ。
「失うかもしれない未来より、失わずに済む今を選んだ」
グラスの氷が、溶けて音を立てる。
「それが、どれだけ残酷な選択だったか、あとになって分かりました」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……私も」
気づけば、そう言っていた。
「あなたが悪いって、思えなかった」
だからこそ、余計に苦しかった。
「同じ方向を見られないなら、別れるしかないって、自分で決めた」
それは、防衛でもあった。
彼は、少しだけ目を伏せた。
「今は……どうですか」
その質問は、重かった。
「今は、結婚を考えられるんですか」
少し前なら、聞けなかった問い。
彼は、すぐには答えなかった。
その沈黙自体が、答えの重さを物語っている。
「……考えられるようになった、とは言えません」
正直な声だった。
「でも」
視線が、こちらに戻る。
「考えないまま、好きになることは、もうしたくない」
その言葉に、胸の奥が強く揺れた。
過去は、変わらない。
でも、今の彼は、あの頃とは同じではない。
それでも。
「同じことを、繰り返すかもしれない」
私が言う。
「また、どこかで立ち止まるかもしれない」
彼は、否定しなかった。
「……その可能性は、あります」
逃げない返答だった。
それが、少しだけ救いだった。
過去の話をする場所で、私たちはようやく、同じ場所に立った。
再び選ぶことは、簡単じゃない。
でも、選ばずに曖昧なままでいることも、もうできない。
その夜、店を出たとき、私たちの距離は少しだけ変わっていた。
近づいたのではない。
ただ、目を逸らさなくなった。
それだけで、十分だった。
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