第8話 再び名前を呼ぶ
その日は、いつもより遅い時間まで作業が続いた。
修正が重なり、確認事項が増え、気づけばオフィスのフロアには人影がまばらになっていた。窓の外はすっかり暗く、街の灯りが遠くに滲んでいる。
「今日は、ここまでにしましょうか」
彼のその一言に、私は小さく息を吐いた。
「そうですね」
疲労がたまっているはずなのに、不思議と頭は冴えていた。集中していたからか、それとも、彼と長い時間を共有していたからか。どちらか分からないまま、パソコンを閉じる。
帰り支度をしながら、沈黙が落ちる。
以前なら、この沈黙は心地よかった。何も話さなくても、同じ空間にいるだけで成立していた。今は、言葉を選ばなければならない沈黙だ。
エレベーターを待つ間、スマートフォンに目を落とすふりをする。特に見るものはない。ただ、視線を逸らしたかった。
静かな音を立てて、扉が開く。
二人きり。
ドアが閉まり、わずかな浮遊感とともに、箱の中に閉じ込められる。階数表示の数字が、ゆっくりと減っていく。
「……今日は、助かりました」
彼が言った。
「こちらこそ」
それだけの会話なのに、声が少しだけ近く感じる。
沈黙。
耐えきれずに、私は口を開いた。
「最近、思うんです」
「はい」
「ちゃんと、大人になったなって」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。仕事の延長のようでいて、そうでもない言葉。
彼は、少しだけ考えてから答えた。
「……そう見えるなら、よかったです」
その返事が、どこか遠慮がちで、胸の奥がきゅっと締まる。
大人になったから、別れた。
大人になったから、踏み込まない。
それが正解だったのかどうか、今も分からない。
エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。二人で外に出ると、夜風が頬に触れた。
「駅まで、同じですよね」
彼の言葉に、私は頷いた。
「はい」
並んで歩き始める。距離は、自然と一定だった。近すぎない。けれど、意識しなければ保てない距離。
駅前の人通りの中、彼がふと立ち止まった。
「……あの」
心臓が跳ねる。
「今度の件、一区切りついたら」
言葉が、そこで一度止まる。
「……少し、話しませんか」
仕事の話ではない、と分かる言い方だった。
私は、すぐに答えられなかった。
期待してしまう自分と、警戒する自分が、同時に動く。ここで一歩踏み出せば、今の距離は保てなくなる。
「……分かりました」
それでも、そう答えていた。
理由を考える前に、言葉が出た。
彼は、ほっとしたように、わずかに表情を緩めた。
「ありがとうございます」
その言い方が、昔と同じで。
別れたあと、彼に向けて名前を呼んだことは、一度もなかった。心の中では何度も呼んだのに、声に出す勇気はなかった。
でも、その瞬間。
「――◯◯」
自分でも驚くほど、自然に名前が口からこぼれた。
彼が、足を止める。
振り返ったその顔に、はっきりと感情が浮かんでいた。驚きと、戸惑いと、隠しきれない何か。
「……久しぶりに、呼ばれました」
責めるでもなく、笑うでもなく、静かな声だった。
「すみません」
とっさに謝る。
「いえ」
彼は、首を振った。
「嫌じゃ、なかったです」
その一言で、胸の奥の何かが、確かに音を立てて動いた。
もう、戻れない。
仕事仲間というだけの距離には、戻れない。
再会は、始まりではなかった。
でも、終わりでもなかった。
選び直す可能性が、ここにある。
それを、否定できなくなった夜だった。
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