第7話 現在の距離
連絡先を交換したのは、必要に迫られてのことだった。
「急ぎの確認が出るかもしれないので」
彼がそう言って、業務用のスマートフォンを差し出したとき、私は一瞬だけ迷った。今さら拒む理由もない。仕事上、自然な流れだった。
「分かりました」
自分の番号を入力しながら、心のどこかで警戒している。ここから先は、戻りにくくなる気がして。
けれど、登録名をどうするかで指が止まった。
フルネーム。
苗字だけ。
それとも、下の名前。
結局、苗字にした。
それが一番無難で、一番遠い。昔は、呼び捨てに近い形で呼び合っていたことを、わざわざ思い出してしまう。
彼も同じだったのだろう。画面を見て、ほんの一瞬だけ指が止まるのが分かった。それから、何事もなかったように操作を終える。
「これで大丈夫ですね」
「はい」
それだけのやり取りなのに、胸の奥がざわつく。
距離は、縮まっている。
でも、近づいたわけじゃない。
その微妙な位置が、今の私たちだった。
連絡は、基本的に仕事のことだけだった。
〈資料確認しました〉
〈次回、開始時間を少し前倒しします〉
必要最低限。感情の入り込む余地はない。少なくとも、表面上は。
それでも、返信の早さや、言葉の選び方で、相手の状態を無意識に測ってしまう自分がいる。昔と同じだ。相手のことを考える癖が、まだ抜けていない。
ある日、打ち合わせの準備で少し早く会議室に入ると、彼がすでに来ていた。
「早いですね」
「そちらも」
そんな何でもない会話。
以前なら、コーヒーの話や、最近見た映画の話に広がっていたはずだ。今は、そこから先へ行かない。行かないと、決めている。
沈黙が落ちる。
不思議と、気まずさはなかった。ただ、何かを意識している重さがある。
「……呼び方」
彼が、ふいに言った。
「はい?」
「仕事中、どう呼べばいいですか」
その質問に、心臓が跳ねる。
「苗字で、いいと思います」
即答だった。考える余裕を与えないために。
「そうですね」
彼は頷いた。納得しているようで、どこか諦めにも見える。
下の名前で呼ばれることを、少しだけ想像してしまった自分が嫌だった。
仕事が終わり、建物を出ると、空が少し暗くなり始めていた。
「今日は、このあと予定ありますか」
彼がそう聞いてきたのは、帰り際だった。
ほんの一瞬、言葉を失う。
「……特には」
答えたあとで、続けて言うべきか迷う。
「どうしてですか?」
「確認したいことが一つあって」
仕事の話。そう分かっているのに、胸の奥がざわつく。
近くのカフェに入り、向かい合って座る。以前なら、当たり前だった光景。今は、少しだけ緊張する。
話題は、確かに仕事のことだった。資料の一部、今後の進め方。どれも合理的で、感情は挟まれない。
それなのに、彼がふと視線を上げた。
「……無理、してないですか」
唐突な一言。
「何がですか?」
「仕事。生活」
その聞き方は、仕事相手に向けるものではなかった。
「大丈夫です」
そう答えながら、視線を逸らす。
嘘ではない。でも、本当でもない。
彼は、それ以上踏み込まなかった。ただ、小さく頷いただけだ。
それが、今の距離だった。
聞かない。
迫らない。
期待しない。
カフェを出るとき、レジ前で並びながら、ふと昔の癖が出た。彼が支払いを先に済ませようとするのを、反射的に止める。
「割り勘で」
言ってから、少しだけ間が空く。
「……そうですね」
彼は笑った。その笑い方が、昔と同じで、胸が痛んだ。
別れたあとの私たちは、こうして少しずつ、新しい距離を作っている。
近づきすぎず、離れすぎず。
壊れないように、慎重に。
けれど、分かっている。
距離は、保ち続けるものじゃない。
いつか、選ばなければならない。
このまま、仕事仲間でいるのか。
それとも――。
その問いを、まだ口に出せないまま、私は夜の街を歩いていた。
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