第6話 彼の視点
再会した瞬間に、失敗したと思った。
彼女の名前を、仕事の場で聞くことになるとは考えていなかった。考えないようにしていた、と言ったほうが正しい。もう関係のない人間だと、自分に言い聞かせてきたからだ。
それでも、会議室のドアが開いて、彼女が入ってきた瞬間、胸の奥がはっきりと反応した。
変わっていない。
けれど、同じでもない。
昔より落ち着いた表情。少しだけ距離を取る視線。自分と同じように、感情を表に出さないようにしているのが分かった。
――ああ、同じだ。
そう思ったのは、安心よりも先に、苦さだった。
打ち合わせ中、彼女の話し方は以前と同じだった。結論に向かって話を組み立てる癖も、言葉を選ぶ間の取り方も、何一つ変わっていない。自分が続きを予測できてしまうことに、内心で苦笑する。
知りすぎている。
それが、今は一番まずい。
彼女と別れたのは、感情がなくなったからではない。むしろ逆だった。大切になりすぎて、引き受けられなくなった。
当時の自分は、仕事を理由に逃げた。
「今は無理だ」
「もう少し待ってほしい」
その言葉が、どれだけ彼女を不安にさせていたか、分かっていなかったわけじゃない。ただ、分かっていても、覚悟が足りなかった。
再会してから、彼女が距離を取っているのは、よく分かる。
踏み込まない。
聞かない。
過去を持ち出さない。
それは、自分が選んだ距離でもあった。
第三者の前で、「初めて一緒に仕事をしている」と言い切ったとき、彼女の表情がほんの一瞬だけ曇ったのを、見逃さなかった。
仕事としては正解だ。
感情としては、最低だ。
それでも、あの場ではそう言うしかなかった。曖昧にすれば、彼女が余計な立場に立たされる。誤解されるのは、自分だけで十分だ。
雨の日、傘を差し出したのは、ほとんど反射だった。
彼女が立ち止まっているのを見て、考える前に体が動いた。断られたら、それでいい。そう思っていたのに、彼女は迷ったあと、傘の中に入ってきた。
距離が近い。
昔なら、当たり前だった距離。
今は、意識しないと保てない。
歩く速度を合わせるのは、癖のようなものだ。彼女が気づいたとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。変わっていないのは、歩き方じゃない。
駅に着いて、指先が触れた瞬間、はっきりと理解した。
――まだ好きだ。
忘れたつもりでいただけだった。
終わらせたつもりで、手放していなかった。
だからこそ、近づけない。
今、もう一度踏み出せば、同じことを繰り返す可能性がある。あの頃より状況は変わった。仕事も、生活も、考え方も。
それでも、覚悟だけは、まだ測りきれていない。
彼女の人生に、もう一度関わる資格があるのか。
傷つけないと言い切れるのか。
答えが出ないうちは、踏み込むべきじゃない。
それが、彼女を思う唯一の方法だと、自分に言い聞かせていた。
けれど同時に、分かっている。
距離を保つことと、気持ちを隠しきることは、同じではない。
彼女がどこまで気づいているのかは分からない。
ただ、次に会ったとき、もう以前と同じではいられないことだけは、はっきりしていた。
終わった恋は、確かに終わった。
だが、選び直す可能性まで、消えたわけじゃない。
その事実が、彼の足を、わずかに重くしていた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




