第5話 思い出は突然に
それは、本当に些細なきっかけだった。
帰り道、突然降り出した雨。予報では降らないはずだったのに、駅を出た途端、空気が変わった。アスファルトに弾く雨音が、急に現実感を強める。
傘を持っていなかった。
立ち止まるか、走るか。迷っているうちに、背後から声がした。
「傘、入りますか」
振り向かなくても分かった。声のトーンも、少し抑えた話し方も、記憶と寸分違わない。
彼が、傘を差し出して立っていた。
「……ありがとうございます」
一瞬だけ迷ってから、そう答えた。断る理由は見つからなかった。今さら他人のように振る舞うほうが、よほど不自然だったから。
傘の下に入ると、距離が一気に縮まる。肩が触れないように、わずかに間を空ける。その不自然な隙間に、言葉が落ちていく。
「すぐ止みそうですね」
「そうですね」
会話はそれだけだった。
それでも、雨音に包まれた空間は、どこか昔を思い出させる。付き合っていた頃、突然の雨に二人で足止めされたことが何度もあった。コンビニで傘を買うかどうか、くだらないことで悩んだ夜。
思い出そうとしていなかったのに、勝手に浮かび上がってくる。
彼の歩く速度は、昔と同じだった。私が無意識に合わせてしまうことも、変わらない。隣を歩くことが、あまりにも自然で、胸の奥が静かに軋む。
「変わらないですね」
思わず、口に出てしまった。
「え?」
「……歩く速さ」
彼は一瞬驚いたような顔をしてから、少しだけ笑った。
「そうですか?」
「はい」
それ以上は、言わなかった。
変わらないのは、それだけじゃない。分かっている。でも、それを言葉にするのは、あまりにも無防備すぎた。
雨が弱まり、駅に着く頃には、傘がなくても歩ける程度になっていた。
「ここで」
彼が足を止める。
「ありがとうございました」
「いえ」
傘を返しながら、指先が一瞬触れた。ほんの偶然。なのに、心臓がはっきりと音を立てる。
別れたあと、こんな距離に立つことはなかった。意図的に避けてきた。近づけば、感情が戻ってしまうと知っていたから。
家に帰っても、落ち着かなかった。
シャワーを浴びても、着替えても、頭のどこかで彼の存在が残っている。雨の匂い、傘の中の空気、あの短い会話。
スマートフォンを手に取って、画面を眺める。
連絡先は、まだ登録していない。仕事用のメールはある。それ以上は、必要ない。そう思ってきた。
――本当に?
もし、今日のことがなかったら、こんなふうに迷わなかっただろう。偶然が重なっただけだ。雨も、傘も、たまたま。
それでも、心は正直だった。
思い出は、過去に閉じ込めておけるものじゃない。生活の隙間から、いとも簡単に入り込んでくる。
彼と過ごした時間は、確かに終わった。
でも、なかったことにはできない。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、私はようやく認めた。
再会してから、ずっと気づかないふりをしてきたこと。
――私はまだ、この人を好きだ。
それは、今すぐどうこうしたい感情ではない。行動に移すつもりもない。ただ、否定できない事実として、胸の奥に残っている。
思い出は、突然にやってきて、静かに居座る。
そして、次に会うとき、もう同じ距離ではいられないことを、私はうっすらと理解していた。
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