第3話 触れない約束
それは、言葉にされた約束ではなかった。
けれど、再会してから数日が過ぎるうちに、私たちの間にははっきりとした線が引かれていった。踏み込まない。掘り返さない。過去を現在に持ち込まない。
誰が決めたわけでもない。ただ、お互いが同じ方向を向いて、同じ距離で立っていることだけは分かった。
仕事のやり取りは順調だった。メールは簡潔で、必要なことだけが書かれている。電話も最低限。雑談はしないし、用件が終われば通話は切れる。
それが正解だと、頭では分かっている。
それでも、たまに送られてくる「助かりました」「確認ありがとうございます」といった短い一文に、無駄に心が反応してしまう。昔は、もっとくだけた言葉を使っていた。感情のこもった、どうでもいいやり取りを、何往復も重ねていた。
今は、それがない。
それが健全で、大人で、正しい距離なのだろう。
対面の打ち合わせでも、同じだった。
話題は仕事のことだけ。プロジェクトの進捗、今後の課題、スケジュール。必要な会話はすべて成立しているのに、どこか足りない感覚が残る。
それは、安心感なのか、親密さなのか、もう区別がつかない。
ある日、資料の確認で二人きりになる時間があった。会議室の窓から、夕方の光が差し込んでいる。外はまだ明るいのに、室内は少し影が濃い。
「ここ、修正案ですが……」
私が説明を始めると、彼は静かに頷きながら聞いていた。視線は資料に落ちているのに、ちゃんとこちらの言葉を追っているのが分かる。
以前と同じだ、と思った瞬間、胸の奥がわずかに締めつけられた。
説明が終わり、沈黙が落ちる。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
「……最近は」
彼が口を開いたのは、ほんの出来心だったのかもしれない。
「最近は、忙しいですか?」
その問いは、仕事の延長線上にあるようで、どこか私的だった。
「それなりに」
私は、そう答えてから少し間を置いた。
「そちらは?」
「まあ、同じです」
それ以上、話は続かなかった。
――聞かない。
お互いに、そこから先へ進まないことを選んだ。仕事以外の「最近」。生活のこと。誰と過ごしているのか。休日に何をしているのか。
聞いてしまえば、戻れなくなる気がした。
会議室を出る直前、彼がふと足を止めた。
「……あの」
一瞬、心臓が跳ねる。
でも、続いた言葉は想像していたものとは違った。
「次回の打ち合わせ、開始時間を少し早めても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
期待した自分を、内心で叱る。
帰り道、エレベーターの鏡に映った自分の顔は、思った以上に疲れて見えた。何も起きていないはずなのに、感情だけが忙しい。
家に帰ってから、ふと昔のことを思い出す。
別れた直後、友人に言われた言葉。
「ちゃんと話し合って別れたなら、後悔しないでしょ?」
そのときは、頷いた。納得もしていた。
でも、「話し合った」ことと「消化できた」ことは、別だったのかもしれない。
私たちは、別れについて多くを語った。将来の話もした。結論も出した。
ただ、感情を置いてきただけだった。
それに触れないまま、時間だけが過ぎた。
再会してから、無意識にそれを避けている自分がいる。彼も、同じなのだろう。あの日の続きを、まだ誰も引き受けられていない。
――触れない約束。
それは、今の関係を保つための、唯一のルールだった。
けれど、その約束がいつまで守れるのか、私には分からなかった。
触れないことで保たれている距離は、とても脆い。
そんな予感だけが、胸の奥に静かに沈んでいた。
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