第16話 再決断
彼女の生活は、少しずつ前に進んでいた。
仕事のペースが整い、週末の予定を一人で埋めることにも慣れてきた。新しいことを始めたわけではない。ただ、立ち止まらなくなっただけだ。
連絡は、来なかった。
それが、何よりの証拠だった。彼女は待っていない。もう、誰かの決断を前提に生きてはいない。
その日の午後、彼女は職場を早めに出た。用事があったわけではない。なんとなく、外の空気を吸いたかった。
駅前のカフェに入ろうとしたとき、名前を呼ばれた。
「――待って」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、彼が立っていた。息が少し乱れていて、ジャケットも整っていない。仕事帰りというより、急いで来たような様子だった。
彼女は、一瞬だけ立ち止まった。
「……どうしたんですか」
距離を詰めない声。驚きはあったが、期待はなかった。
「話をさせてほしい」
「今なら、少しだけ」
条件付きの返事だった。待たない人の返事だと、彼はすぐに理解した。
二人は、近くの公園まで歩いた。以前と同じ場所。けれど、立ち位置は違う。彼女は立ち止まり、彼は一歩手前で足を止めた。
「前は、引き止めなかった」
彼が言った。
「でも、それは尊重じゃなかった。ただ、選べなかっただけだ」
彼女は、何も言わない。続きを待つ。
「俺は、結婚を“準備が整ってからするもの”だと思ってた」
「でも、それは逃げだった」
言い訳をしない声だった。
「一緒に生きるって、保証を集めることじゃない」
「失うかもしれない未来を、引き受けることだって、ようやく分かった」
彼女の表情は変わらない。だからこそ、彼は言葉を続けた。
「だから、条件は出さない」
「期限も、様子見も、しない」
彼は、一歩踏み出した。
「君と生きることを、今、選ぶ」
それは質問ではなかった。確認でも、説得でもない。選択の提示だった。
「結婚するかどうかは、二人で決めたい」
「でも、逃げない」
「君の人生を、引き受ける」
沈黙が落ちる。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それ、前なら言えなかった言葉ですね」
「言えなかった」
彼は、はっきりと頷いた。
「失って、分かった」
彼女は、少しだけ視線を落とした。考えているというより、確かめているようだった。
「私は、もう待たないって決めました」
「分かってる」
「だから」
彼女は顔を上げる。
「今の言葉は、“今”の選択ですよね」
「そうだ」
即答だった。
「未来の保証じゃない」
「今日の選択だ」
彼女は、しばらく彼を見つめた。以前なら、胸が先に動いていただろう。今は違う。自分の足で立ったまま、相手を見ている。
「……一つだけ」
彼女が言った。
「もし、また迷ったら?」
「迷うと思う」
彼は否定しなかった。
「でも、そのときは、一人で考えない」
「一緒に、決める」
それが、彼なりの覚悟だった。
彼女は、小さく頷いた。
「じゃあ」
ほんの一瞬、間を置いてから言う。
「もう一度、始めましょう」
条件はなかった。
期限もなかった。
ただ、同じ方向を向くという確認だけがあった。
並んで歩き出すと、夕方の光が二人を包んだ。歩幅は、自然と合っていた。合わせたのではない。確かめる必要もなかった。
選び直すということは、過去をなかったことにすることじゃない。
同じ失敗を抱えたまま、それでも手を伸ばすことだ。
彼女は、もう待つ人ではない。
彼は、逃げる人ではない。
完璧ではない二人が、
それでも一緒に生きると決めた。
それだけで、十分だった。
この物語は、「やり直す恋」の話ではありません。
一度、終わった関係をもう一度つなぐ――そう聞くと、簡単で都合のいい物語のように感じるかもしれません。
けれど現実では、
好きな気持ちよりも先に、
生活や覚悟や、引き受ける責任が立ちはだかります。
「好きだけど、決められない」
「待てばいいと分かっているけれど、もう待てない」
この二つは、どちらも間違いではありません。
ただ、同時には成立しないのです。
この物語で描きたかったのは、
誰かに選ばれるのを待つ恋ではなく、
自分の人生を自分で選んだ先に、もう一度誰かを選ぶことでした。
主人公は、強い人ではありません。
何度も迷い、理解しすぎて、待つことを選んできました。
彼もまた、悪い人ではありません。
ただ、決めることの重さから目を逸らしていただけです。
二人が再び向き合えたのは、
気持ちが戻ったからではなく、
それぞれが「同じ場所」に立てたからでした。
恋は、感情です。
でも結婚や人生は、選択です。
その違いに気づいたとき、
この物語はようやく動き出しました。
もし今、
「好きだけど、このままでいいのか」と立ち止まっている人がいたら、
この物語が、静かに寄り添えたなら嬉しく思います。
選ばれなかった終わりではなく、
自分を選んだ終わりが、
次の物語の始まりになることもあるのだと。
ここまで読んでくださり、
本当にありがとうございました。
他の物語も綴っています。
そちらでお会い出来たら嬉しいです。




