第15話 失ってから分かること
部屋に戻って、電気もつけないまま、しばらく立ち尽くしていた。
静かだった。時計の音だけが、やけに大きく響く。彼女と別れた夜と、よく似ている。あのときも、こんなふうに、何も失っていないつもりで立っていた。
――違う。
今回は、はっきりと失った。
彼女は怒らなかった。責めもしなかった。泣きもしなかった。ただ、自分の人生を選ぶと静かに告げて、去っていった。
それが、いちばん堪えた。
ソファに腰を下ろし、ようやく電気をつける。見慣れた部屋。必要なものは揃っている。仕事もある。生活は、問題なく回っている。
それなのに、何かが決定的に足りない。
スマートフォンを手に取って、画面を見つめる。連絡を取ろうと思えば、取れる。謝ることも、引き止めることも、できなくはない。
でも、何を言う?
「待ってほしい」?
「もう少し考える」?
その言葉が、彼女をどこへ連れていくのか、もう分かっている。
彼女が去った理由は、愛情の不足じゃない。覚悟の不在だ。自分が選ばなかったことを、彼女ははっきりと見抜いていた。
翌日、職場で同期の結婚報告を聞いた。
「来月、入籍することになりました」
拍手が起き、冗談交じりの祝福が飛ぶ。以前なら、どこか他人事として聞いていたはずだ。
でもその日は、違った。
同期の笑顔を見て、不意に思う。彼は何を選んだのだろう。完璧な準備か。確信か。それとも、揺れたままでも手を伸ばす覚悟か。
昼休み、ふとした拍子に彼女の言葉が蘇る。
「引き止められて残るのは、私じゃなくて、過去の私です」
その通りだ。
自分は、未来を差し出していなかった。失いたくないと思いながら、引き受けることから逃げていた。選ばなかったのではない。選ぶ責任を、先延ばしにしていただけだ。
仕事帰り、寄り道もせずに帰宅する。部屋に入ると、また静寂が戻ってくる。彼女がいない空間を、初めて強く意識した。
結婚とは、制度じゃない。
期限でも、周囲への体裁でもない。
――誰と生きるかを、決めることだ。
その単純な事実に、なぜ今まで辿り着けなかったのか。考えているつもりで、何も決めていなかった。安全な場所に立ったまま、可能性だけを眺めていた。
彼女は、その場所から一歩踏み出した。
自分は、立ち尽くしたままだった。
夜、眠れずに起き上がり、窓を開ける。冷たい風が入り込む。街の灯りは、相変わらずそこにある。
このまま時間が過ぎれば、彼女はいなくなる。完全に、自分の人生を歩いていく。その未来を想像した瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
嫌だ、と思った。
失ってから気づくなんて、遅すぎる。それでも、気づかないよりはましだ。
選ぶとは、保証を求めることじゃない。
失うかもしれない未来を、引き受けることだ。
彼女と一緒に生きる未来を、自分は本当に失っていいのか。
答えは、もう出ていた。
スマートフォンを手に取り、画面を見つめる。連絡先は、まだ消していない。消す理由も、今はない。
言葉ではなく、選択で示さなければならない。
中途半端な約束も、曖昧な希望も、もう通用しないことを、自分が一番よく分かっている。
深く息を吸い、吐く。
遅れてやってきた覚悟は、確かにそこにあった。
あとは、それを行動に変えるだけだ。
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