第11話 踏み込めない一線
その日は、彼のほうから連絡が来た。
〈少し、話せますか〉
短いメッセージだった。用件は書かれていない。それでも、仕事の話ではないことは分かった。最近の私たちは、仕事の連絡にそんな曖昧さを残さない。
〈大丈夫です〉
返事を打ってから、画面を見つめる。胸の奥が、わずかに緊張しているのを自覚する。
場所は、前に話した店とは違った。もっと静かで、人の声が控えめなカフェ。長居を前提に選ばれた場所だと、すぐに分かった。
先に来ていた彼は、窓際の席に座っていた。コーヒーは、まだ手をつけていない。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
向かい合って座ると、自然と背筋が伸びた。逃げ場のない感じがする。
「急にすみません」
「いえ」
彼は、一度だけ深く息を吸った。
「この前の話のあと……少し考えてました」
結婚の話だ、と分かる。
私は何も言わず、続きを待った。
「再会してから、前と同じことを繰り返したくないと思ってて」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れる。
「俺なりに、ちゃんと向き合おうとはしてます」
“向き合おうとしている”。
その言い回しが、引っかかった。
「……それで」
私が促すと、彼は少しだけ言葉を選んだ。
「今すぐ、結論を出せる状態じゃない、というのが正直なところです」
否定はしない。
でも、肯定もしない。
想像していた通りの答えだったのに、胸が痛む。
「どれくらい、考えれば結論が出ると思いますか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
彼は、すぐに答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……分かりません」
正直な言葉。
「状況が整えば、とか」
「気持ちが固まれば、とか」
曖昧な条件が、並べられる。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「前も、同じことを言ってましたね」
責める口調ではなかった。ただ、事実をなぞっただけだ。
彼は、否定しなかった。
「はい」
短い返事。
「そのとき、私は“待つ”を選びました」
彼の目が、わずかに揺れる。
「あなたが悪いわけじゃないって、思ってたから」
「仕事も大事なのは分かってたから」
それは、今でも嘘じゃない。
「でも」
言葉を続けるのに、少し勇気が要った。
「待つって、覚悟がいるんです」
彼は、何も言わない。
「期限が見えない待ち時間は、少しずつ、自分を削っていく」
それを、私はもう経験している。
「また同じことになるかもしれない、って思ったら……正直、怖いです」
声が、わずかに震えた。
彼は、テーブルの上で手を組んだまま、しばらく動かなかった。
「……それでも」
ようやく、彼が口を開く。
「今の俺に、“必ず”と言える自信はないです」
誠実な言葉だった。
だからこそ、逃げ場がない。
「無責任な約束は、したくない」
その言葉に、私は小さく笑ってしまった。
「それも、前と同じですね」
自分でも驚くほど、感情のこもらない声だった。
沈黙が落ちる。
コーヒーが冷めていくのを、二人とも気にしていなかった。
「……じゃあ」
私が、先に口を開いた。
「今の私たちは、どういう関係なんでしょう」
恋人でもない。
仕事仲間でもない。
友人とも言い切れない。
彼は、答えに詰まった。
その瞬間、はっきり分かった。
踏み込めない一線は、ここにある。
好きかどうかじゃない。
一緒に生きる覚悟が、まだ交差していない。
「少し、時間をください」
彼のその言葉を聞いて、私は静かに頷いた。
「分かりました」
でも、その返事の中に、以前のような期待はなかった。
カフェを出ると、空気がひんやりしていた。並んで歩きながら、会話はほとんどなかった。
駅に着いて、立ち止まる。
「今日は、話してくれてありがとうございます」
彼が言う。
「こちらこそ」
それだけで、別れた。
電車に乗り込み、窓に映った自分の顔を見る。
私は、待つ覚悟があるのだろうか。
それとも、もう待たないと決めるべきなのだろうか。
その答えは、まだ出ていない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
このまま曖昧な関係を続けることは、もうできない。
踏み込めない一線を、私たちは確かに見てしまった。
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