第10話 現在の生活と結婚観
彼の生活を、私はほとんど知らなかった。
再会してから何度か会って、仕事の話と、過去の話を少しした。それだけだ。どんな部屋に住んでいるのか、休日は何をしているのか、誰と食事をしているのか。以前なら当たり前に共有していたことを、今は意識的に聞かないでいる。
それが、正しい距離だと思っていた。
その日は、仕事の区切りがついたあと、自然な流れで食事をすることになった。約束というほど大げさなものではなく、「このあと少し」という曖昧さのまま。
店は、彼が選んだ。落ち着いた雰囲気で、少しだけ値段が高い。以前の彼なら、もっと気取らない店を選んでいたはずだ。
「変わりましたね」
注文を済ませたあと、ふと口に出す。
「何がですか」
「店選び」
彼は一瞬考えてから、苦笑した。
「そうかもしれません。仕事関係で、こういう店に行くことが増えたので」
仕事。そう言われると、それ以上踏み込めない。
料理が運ばれてきて、他愛ない話が続く。最近の仕事のこと、業界の動き、共通の知人の噂話。どれも無難で、安全な話題だった。
けれど、隣のテーブルから聞こえてきた会話が、ふいに空気を変えた。
「式は来年の春にしようかって話してて」
「もう両家の顔合わせも済んだんだ」
聞くつもりはなかった。でも、耳に入ってしまった。
結婚。
その言葉に、胸の奥が小さく反応するのを感じる。視線を落とすと、彼も同じように、ほんの一瞬だけ動きを止めていた。
「……周り、結婚する人増えましたよね」
私がそう言うと、彼は曖昧に頷いた。
「そうですね。同期も、だいぶ家庭持ちになりました」
その言い方は、どこか他人事だった。
「焦ったりしませんか」
自分でも驚くほど、自然な声だった。問い詰めるつもりはなかった。ただ、確認したかった。
彼は、少し考えてから答える。
「焦る、というほどでは……」
言葉が、そこで一度止まる。
「いつかは、とは思ってます」
その「いつか」が、いつなのか。誰と、なのか。
聞かなかった。聞けなかった。
「でも、周りに流されて決めるものでもないですし」
続く言葉は、理屈としては正しい。あの頃と同じように。
胸の奥に、静かな既視感が広がる。
「そうですね」
私は、そう返すしかなかった。
料理を口に運んでも、味があまり分からない。会話は続いているのに、意識の一部が、別のところに引き寄せられている。
――また、同じ言葉を聞いている。
以前も、こうだった。否定しない。可能性も残す。でも、決断はしない。その曖昧さが、私をどれだけ不安にさせていたか。
会計を済ませて店を出ると、夜風が少し冷たかった。
「今日は、ありがとうございました」
彼がそう言って、軽く頭を下げる。
「こちらこそ」
並んで歩きながら、私は自分の気持ちを整理しようとしていた。
彼は、変わった。
でも、変わっていないところもある。
結婚を「考える」ことと、「選ぶ」ことは違う。その差を、私はもう知っている。
駅の改札前で、立ち止まる。
「……また、連絡します」
彼のその一言に、私は頷いた。
「はい」
それだけで別れる。
家に帰ってから、ソファに座ったまま、しばらく動けなかった。今日の会話を何度も思い返す。責めるほどではない。でも、安心もできない。
好きだという気持ちは、確かにある。
でも、それだけでは足りない。
私はもう、分かっている。
結婚を「いつか」と言う人を、待ち続ける怖さを。
再会は、過去をなぞることじゃない。
けれど、過去と同じ地点に立ってしまうことはある。
その事実を、私は静かに受け止めていた。
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