第1話 再会は予定外だった
一度、終わった恋だった。
嫌いになったわけでも、裏切られたわけでもない。
ただ、同じ未来を選べなかっただけ。
数年後、思いがけず再会した元恋人は、
少しだけ大人になっていて、
それでも、変わらない部分も残していた。
これは、
「もう一度付き合う話」ではない。
好きだという気持ちと、
一緒に生きる覚悟が、
本当に同じ場所に立てるのかを問い直す物語。
静かで、現実的で、
それでも確かに“恋”だった時間の記録。
その名前を聞いた瞬間、心臓が一拍、余計に跳ねた。
「今回の案件ですが、先方の担当は――」
会議室の空調音と、資料をめくる紙の音。そのどれもが遠のいて、私は自分の呼吸の音だけを意識していた。聞き間違いであってほしい、と一瞬だけ願ってから、そんな都合のいい奇跡が起きる年齢でもないことを思い出す。
――まさか。
数年、聞いていなかったはずの名前だった。意識して避けてきたわけではない。ただ、生活の中から自然と消えていった音だったはずなのに、こうして唐突に戻ってくると、体のほうが先に反応してしまう。
「初回の顔合わせは、来週の火曜日です」
淡々と進む説明を、私は半分も理解できていなかった。頭の中では、過去の記憶が勝手に掘り起こされていく。最後にその人と話した日のこと。別れ話をしたあの夜。あれから何年経ったのか、正確な数字すら曖昧だ。
会議が終わる頃には、動揺は表に出さない程度には落ち着いていた。少なくとも、そう思っていた。
けれど、約束の火曜日。指定された会議室のドアを開けた瞬間、その自信はあっさり崩れた。
そこに立っていたのは、記憶より少しだけ大人びた、でも確かに見覚えのある横顔だった。
一瞬、視線が合う。
相手も、私だと分かったのだろう。ほんのわずかに目を見開いてから、すぐに仕事用の表情に戻った。その切り替えの速さに、胸の奥がちくりと痛む。
「本日はよろしくお願いします」
差し出された名刺。形式通りの挨拶。声のトーンも、言葉の選び方も、他人行儀で完璧だった。
――初対面のふりをするべきか。
そんな迷いが一瞬よぎったが、現実的ではない。お互いに社会人で、仕事で再会した以上、過去は過去として処理するしかない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
名刺を受け取りながら、私は相手の名前を口にしなかった。呼べば、何かが決定的に動いてしまう気がして。
打ち合わせは滞りなく進んだ。資料の説明、スケジュールの確認、役割分担。どれもよくある内容で、二人の関係性を知る人が聞いていたとしても、そこに特別なものは感じなかっただろう。
それが逆に、苦しかった。
以前は、何を話すにも遠慮がなくて、沈黙すら心地よかった相手だ。今は、言葉一つひとつを選び、距離を測りながら会話をしている。その慎重さが、失った時間の長さを突きつけてくる。
打ち合わせの終わり際、相手がふと視線をこちらに向けた。
「……久しぶりですね」
その一言だけが、妙に私的だった。
周囲には人がいる。誰かが聞いていたとしても、昔からの知人同士に見える程度の、無難な言葉。それでも胸がざわついたのは、名前を呼ばれなかったからだ。
「そうですね」
それ以上、何も続かなかった。続けてしまえば、どこまで話していいのか分からなかった。
会議室を出て、それぞれ別の方向へ歩き出す。背中越しに、呼び止められるのではないかと期待してしまう自分が情けない。そんなことが起きないと分かっているのに、足取りが自然と遅くなる。
結局、何も起きなかった。
帰り道、スマートフォンを何度も確認する癖が出たが、当然、通知はない。連絡先も消したままだ。仕事用のメールアドレスは分かっている。それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。
家に着いて、靴を脱いだところで、ようやく息を吐いた。
――終わった恋だ。
何度も繰り返してきた言葉を、改めて心の中でなぞる。私たちは、ちゃんと話し合って別れた。どちらかが裏切ったわけでも、傷つけ合ったわけでもない。ただ、同じ未来を見られなかっただけだ。
それなのに。
テーブルに置いた資料の端に、相手の名前が印字されているのを見て、胸の奥が静かに軋む。
終わったはずの恋は、思っていたよりもずっと、近くにあった。
再会は始まりではない。ただの偶然だ。そう言い切ろうとした瞬間、心のどこかで、小さく何かが動いた気がした。
それが何なのか、まだ分からないまま。
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