第五話 誘い(後編)
「ッ何するんですか?!」
突然の事に非難する武の視界が急速に奪われていく。体が重い。まるで酩酊しているような。
「??…」
クラクラしていると、竜骨に背中をパン、と叩かれた。
途端に、今度はとてつもない疲労感に襲われる。マラソンをして全身で息をするような、体に力が入らない感覚。
「並木サン!いい加減、あれが犬に見えてないって気付け!」
「なにを…」
言ってるんですか、と言う言葉は上手く呼吸が整わず、続かなかった。
「取り憑かれてるンだよ。」
竜骨の言葉に一瞬理解が追い付かなかった。
「703号室に行きたくって仕方なかったろ。早くこの空間から出たいからか?違う。だって並木サン、階段を登っている間、目は無表情なのにずっと口許だけ笑ってたぜ。」
点滅する視界の中で響く竜骨の声に、まさか、と思う。
(まさか、そんな…いつ…)
眩む視界の中で竜骨の舌打ちが聞こえ、素早く動く気配がした。
「う…?!」
(早く行かなくちゃ。早く。早く。
ー何だこれー
だって、
ーこれはー
早く行かないと。
ー俺の感情?ー
早く死なないと。
ー違う、俺は死にたくなんてー
独りはサミシイ…)
ボロボロと涙が出る。
表情は無表情のまま、見開いた目から涙が溢れた。
竜骨の声がまた響く。
「並木サン!飲まれるな!そんなの幻みたいなモンだ!アンタは死にたくなんてねえし、独りじゃない!」
武の口から、うううう…と言う呻きが漏れる。
こんなに苦しいのか、孤独感と言うのは。
こんなに何もかもが憎いのか、孤独の中で命を絶つと言うのは。
こんなに寂しくて辛いのか、自ら死ぬしかない時と言うのは。
背後で蹲る武を目の端に捉えながら、竜骨は思念を凪ぐ。
武の異常な状態が急速に悪化した瞬間、703号室に引き寄せられていた。強制的に部屋へ入れるつもりだろう。
これ以上、怪異に近づいたら竜骨は正気を保てても、武の精神が持たないかもしれない。
「…クソがぁっ!」
竜骨はバッグから榊の枝を出す。
その隙に、竜骨は勢いを増した腕達に絡め取られていく。
「…クシイナダの比売にかしこみかしこみまをす!」
武に向かって枝をほおり、竜骨は703号室に引き吊り込まれた。
稲の匂いが香り、空気に清浄が戻る。
「…」
武は暫し呆けていたが、ハッとして周囲を見渡した。竜骨の姿はなく、703号室が薄く開いている。
(……どうしよう…。)
また、あんな目に遭うのか。あの中に入ったら。
その恐怖感に、武は憮然とするしかなかった。




