1:うみねこカフェ
運命というやつは、時に人を試す。
どのような奇跡や偶然にも何らかの因果があり、先の不幸へと細い糸を紡いでいる事もある。
たとえばそれが第三者による企図だったとしても、真実と事実の曖昧な境界線は越えてみないとわからないものだ。
そして〔それ〕が死をもたらすケースはザラである。
「……いいか、サム。父さんと約束だ。これからは、お前が母さんを守るんだ。強く芯のある男になるんだぞ」
遠い父からの電話はそれが最後だった。
それからすぐ、父の同僚とかいうイカツい男に父の死を告げられた。
「君のお父さんは本当に立派な人だった。お父さんのように誇り高く、強く生きろ」
その同僚はそう言って「父の形見だ」と、赤いハンカチとロケットペンダントを幼いサムの手に包ませたのだった。
あれから、二十年。
二十年という年月は、本当にあっという間だった。
サムは来る日も来る日も涙する母を見て育った。思えばろくな青春時代ではなかったように思う。
父が死んでから母の涙は枯れ、日がな魂が抜けたように庭をぼんやり見ているだけ。長い年月で荒れ果てた庭に、かつての華やかさは微塵もなかった。
サムはそんな庭と母がかぶって見えるのが嫌だった。笑顔がなくなり会話も消え、就職してからは顔をまともにみることができなかった。
そんな毎日に気づけば二十年。父が死んでから本当に、あっという間だった。
いくつもそびえたつ巨大な鉄塔の足元のさらに奥。薄汚れた整備工場の間の金網の向こうに、老朽化しひびの入った工場がひとつ。サムの職場はその工場地帯の一端にあった。
かつては兵器開発で栄えたこの工場地帯も、終戦とともに静かに終わりを迎えつつある。サムの職場のアスファルトはひび割れ穴ぼこまみれだし、隙間からは雑草がわさわさ伸びていた。
「今日で最後か」
油汚れが目立つ作業着から、日に焼けた褐色の肌が太陽に光る。
クセの強い黒髪をキャップ帽におさめ、煙草を安全靴で踏み消したサムは、長年務めた工場を見上げた。
同僚も友達も仕事を求め都会へ旅立ち、ささやかな漁業とオリーブ菜園が香る穏やかなこのド田舎も、今じゃ年寄りばかりだ。
そんなド田舎の最後の技術も今日、長い歴史に静かに幕を降ろし、街はまた一つ活気を失った。
割れ窓のそばに捨て置かれた錆びたドラム缶を机に、開けたばかりの酒瓶をあおぐ。わずかばかりの退職金をポケットに、サムは明日を考える他なかった。
海沿いの赤レンガ通りは昔のままだった。その先にあるシーサイドカフェも相変わらず、穏やかな波を見下ろしている。
海風に揺れるカモメの白看板には、青いペンキで〔うみねこカフェ〕と書かれている、らしい。らしい、というのも禿げすぎて何が書いてあるか読めないのだ。どうみてもカモメの絵なのに[うみねこ]と称しているあたり、幼馴染のミミの天然っぷりがよくわかる。
それでも店内はそこそこ洒落たカフェで、白壁に映えるオリーブ色の床はコツコツといい音が返り、大きな窓から一望できる絶景の海がまたコーヒーの香りをひきたてるのだ。
「おっちゃん、いつもの」
サムはいつもの席に腰をおろし、くたびれた就職情報誌をデスクに広げた。
もちろんサムも職場がなくなる今日まで、日がな遊び呆けていたわけではない。休日にバイクを飛ばし電車に乗っては、いくつも面接を受けた。しかし世は自動機械化のさなか、どこも古臭い作業員より若いエンジニアをとりたがる。
そんな面接の日々で幾度か、サムは自分と同い年ほどの面接官に機械油のしみ込んだ指を笑われた事があった。隠すようにかたく握られた拳に涙がおちた事は一度もなかった。
しかし正直なところ、すっかりまいっていた。求職欄はほとんどバツが入り、面接できる会社はもうほとんど残っていない。
高い天井でシーリングファンがゆっくりと穏やかな時を刻んでいた。
デスクに置かれたいつものサンドをソーダで流し込んだサムは、心配そうにこちらを見つめるウェイトレス、ミミの視線に顔を上げた。
「何だ?」とサム。
ミミのよく手入れされた黒髪がさらりと揺れた。きれいな空色の瞳にサムが映る。
「ちゃんと食べてるの?」
サムは両手を広げてみせる。
「今食ってるだろ?」
「サムじゃなくって、サムのお母さん」
幼馴染ミミは言ってサンドイッチの包みをデスクに置き、腰に手を当てため息ひとつ。
「たまには二人でゆっくり食事でもしたらどうかな?」
それとなく言って、就職情報誌を見やる。
「この町にもまだ仕事はあるよ。サムが勤めてた所よりずっと小さいけど、それなりの町工場もあるじゃない」
それはサムも百も承知だった。サムは二十六歳の青年だが、これまでの仕事からそれなりに手に職はついている。道具さえあれば何だって作れる、それが自慢だった。今ある可能性を殺し、小さな町工場に身をおさめるのはまっぴらごめんなのだ。
サムは気だるげに大きなあくび一つ、首の後ろをかいた。
「俺ぁ今、忙しいんだよ。話なら後できくから」
言って手をひらつかせ、また就職情報誌に集中した。
それにミミは肩をすくめ、持ち場へ足先を向けた。ちらりと振り返り、サムの真剣な横顔に頬をそめる。身だしなみに無頓着で無精ひげが目立つものの、整った骨相や魅力的な眼差しは昔のままだ。
サムはその昔、私とママゴト遊びをしたさいに「俺の嫁さんになれ」と言った事を覚えているのだろうか?
もう覚えてはいないだろう。あのデスクの冊子が自分だったらよかったのに。
今まさにサムは都会の可能性に恋しているのだ。いくら振られようが熱烈に、そして真剣にアタックを繰り返している。
いつかその恋が実れば、サムは喜び勇んで都会に就き、いつか本当の恋をする。そしてうみねこカフェや私やこの街を思い出にし、いつかのママゴトのセリフをどこぞの誰かに囁くのだろう。
でも、どうしようもなかった。ささやかな恋も、現実の前では無力だった。
「なんだか海の様子が芳しくないな、やけに静かだ」
厨房から顔をだした店長が、肉包丁片手に窓の向こうに呟く。
「嵐がこなけりゃいいが」
「ニュースでは晴れだったわよ、パパ」
皿洗いを終えたミミは言って、トレイを流しに置いた。パパこと店長はまだ遠くを見つめている。
「いいや、俺のカンは昔からよく当たるんだ。サムくんが帰ったら閉めるぞ、ミミ」
日がすっかり真上に差し掛かる頃。会計を終えたサムが、ミミのお手製サンドの袋を受け取った。
「いつもサンキュ」
「あ、お礼なんてめずらしい。雨が降るかな?」
ミミはいたずらっぽく言って、窓の外に指先を向けた。「パパいわく、今日は嵐がくるんだって」
窓の外は雲一つない晴天だ。サムは軽く眉をあげてみせた。
「そりゃ見ものだな、おっちゃんの天気予報は百パーセントの的中率だから」
言ってポケットに財布をつっこみ、鼻先をかく。
「じゃ、また明日な」
ミミはいつものように、サムの広い背に手を振った。
びゅうと冷たい風が吹く。ミミは髪をおさえ、扉看板を〔クローズ〕に返したのだった。