7章 小さな希望
気がつくと薄暗い部屋だった。シルヴィの目には板張りの天井が映っている。ごくごく平凡な、どこの家でも見られるものだ。
だがそれが分厚い岩盤でないことが、彼女を一瞬戸惑わせた。自分は今の今まで奇怪な洞窟にいたはずなのだ。しかも最後には異形の怪物に襲われて……。
絶体絶命の状況を思い出すと、再び心臓がバクバクしだす。あの時自分は間違いなく死んでいた。瞼を閉じれば今もおぞましい暗黒の大口がありありと浮かぶようだ。実際やたらと長い舌の怖気を催す感触はいまだ色濃く残っていた。それ自体が一個の生命体を想起させる残像に、知らず身体がブルっと震える。
――だが心臓にショックを与えたことでかえって現実に引き戻されたのだろう。シルヴィはそこでやっとあれは夢だったのだと気づいた。とびきりの悪夢だったと。
その証拠に、暑くもないのに全身に冷汗をかいている。
確かにそれくらい、もう二度と見たくない光景であった。
今までずっと眠っていたらしく、彼女はベッドの中にいた。薄手の毛布を首元まで被り枕を頭に仰向けに寝ている。ベッドはさほど上等なものとはいえず、少し身じろぎするだけでギシギシ鳴った。
しばし途方に暮れる。
誰か知り合いの家だろうか。少なくとも住み慣れた我が家ではない。いや、それどころか村にあるどの住居の雰囲気とも異なっていた。
では、ここは一体……。
迷宮めいた洞窟から目覚めたら見知らぬ部屋の中にいたというのは、まるでそれ自体が一続きの悪夢だった。永遠に終わることのない夢を見ているようで、何とも不安な気分になる。
(そんなはずは、まだ夢の中だなんて……)
シルヴィはとりあえず今の状況を確認すべく、ベッドの上で半身を起こした。余程の永い眠りだったのか、身体の強張りが相当こたえる――その時である。
「お目覚めかね」
ふいに男性の声がして、てっきり部屋に一人だと思っていた娘は心臓が止まりそうになった。妙にくぐもった、恐らくはかなり年嵩の人物の声だった。
声は背後から聞こえた。シルヴィは慌てて身体ごと振り返る。
そこには壁を背にした椅子に腰かけた一つの人影があった。ベッドから二デールほどの距離だ。
室内が暗い上に頭巾つきの灰色ローブを纏っているため、顔はよく見えない。身体の手前で木の杖をついていて、杖の握りに載せられた両手は細く骨張って感じられた。右手の人差し指にはめた青い石の指輪が妙に印象的だ。
シルヴィはしかと見つめたものの、誰何しようにも言葉は出てこなかった。その怪しげな姿は、まぎれもなく危険な人物の香りがしたのだ。そもそもどことも知れぬ部屋のベッドで面識のない人間に寝顔を見られていたこと自体、鳥肌の立つ薄気味悪い状況であった。
すると相手の警戒心を悟ったのか、人影が説明口調で言う。
「フム、ここがどこだかまだ分からんようだな。無理もない、君は丸三日眠っていたのだから」
「丸三日?!」
シルヴィは驚きのあまり声を上げた。確かに長く眠っていた気はするが、まさか三日とは……。
「そう、我々が丁重に君を迎えてからな。奴らもさほど手荒な真似はしなかったはずだが、身体に痛む所はないかね?」
そう問われると何となく右肩の辺りが痛い気がした。左手で触れてみると特に怪我はないものの、やはり少しズキズキする。どこかでぶつけでもしたのだろうか。
と、ふとそこでシルヴィの脳裡にある絵が閃いた。その途端に心拍数が急激に上がるような、とてつもなく嫌な絵だった。
走り逃げ回る自分。それを猟犬のように集団で追う黒ずくめの男たち。ぎらついた眼。背後から肩を乱暴に掴む太い腕――。
「催眠術が効き過ぎていたようだが、ようやく思い出したか」
そしてまるで心を読んだかのように人影が口を開いた時、彼女はすべての記憶を取り戻していた。その強烈さは、今まで忘れていたのが信じられないくらいである。
「デインに向かう途中、突然あいつらに襲われて……、その後どこかへ連れて行かれた?」
「さよう、その時の無礼は陳謝させてもらうが、しかしこちらも急いでいたのでね……。君に対しては一厘たりとも恨みはないが、不幸にも我々の探すあるものの片割れをもっていた、ただそれだけのことだ」
それだけのこと、と言われても当然何一つ納得できるわけがない。むしろそうした悪事を被害者に向かって平然と述べられる相手の神経に、シルヴィはおぞましさを抱いた。
「な、何が陳謝よ、大して悪びれていないくせに。そんなことよりここはどこなの? あなたの目的は?」
「ホウ、なかなか気丈な娘だな。この状況でそこまで言えるとは。ならばそれに敬意を表して答えよう。ここはホブズ、カズフール山麓の街だ。そして我々はこれからその山へ登ろうとしている」
ホブズ――彼女にはまるで聞き覚えのない名前だった。伯領内のどこかだろうか?
すると相手の戸惑いを察知したのだろう、人影が補足するように言葉を継いだ。
「カズフール山中にはジェリコという村がある、こう言えばお分かりかな?」
「!」
人影の告げたその名は、シルヴィに電撃にも等しいショックを与えた。確かに彼女にとっては既知の、しかし決して他言してはならない名だった。
「なぜあなたがそれを……?」
「先ほども言ったように催眠術を君に掛けたのでね。少々深かったが、さまざまなことを教えてもらったよ。あの男の言った通り、やはり<石>はもう一つあるようだな」
そこで初めて、シルヴィはとても大事なことに気づいた。手元にあれがない。自分が命に替えてまで守ろうとした、あの石が。慌てて周りを、そして室内を見回す。だが部屋は閑散とするばかりで、ベッドの他には人影の座る椅子と、何も載っていない丸テーブルがあるきりだ。肝心のあれはどこにも見当たらない。
シルヴィは人影をきっと睨みつけた。間違いなく、この謎の人物に奪われたのだ。
「あなたが取ったのね?」
「何のことだ?」
「ごまかさないで! あれは私の家に伝わる大切なもの、絶対に渡すわけには……」
しかしそれ以上は続かなかった。人影の口許に、何とも酷薄な冷笑を認めたのだ。目的のためには人殺しもいとわない、そんな笑みだった。
「――真に残念ながら、そのご要望には応じかねる。君の持つ<石>を得るために、私は相当な金と労力を費やしてきたのだ。今さら引き下がれん。ここは諦めるのが賢明というものだろう」
そして人影が一拍置いてさらに続けた一言は、冷酷無比な本性むき出しのものだった。
「命を奪われないだけ幸運と思え」
強烈な悪意を一気に向けられ、シルヴィは抵抗する術を失う。彼女はようやく相手が自分とはまったく異なる世界の住人だと理解したのだった。
次いで聞こえた人影の声が元の落ち着いたものに戻っていても、もはやその印象は変わりようがない。怯えをなるべく悟られまいとするのが精一杯の抗いであった。
「代わりと言っては何だが、こちらはお返ししよう。これはこれで見事なものだ。君にとっても大事な品なのだろう?」
そう言って人影はローブのたもとに手を入れると、何かを取り出した。それは小さな木の箱だった。
左手にそれを抱えるとおもむろに立ち上がり、ベッドの傍へ近寄る。まるで幽霊のような立ち姿にシルヴィの警戒心はいや高まったが、ベッドの上に木箱を置くと彼は元の位置にさっさと戻って行った。
近づいた一瞬頭巾の陰に垣間見えた顔は、おとぎ話に出てくる魔女の如き立派な鷲鼻をしていた。
「どうした、いらんのかね?」
杖を前についた、先ほどと寸分も違わぬ姿勢で人影が問うた。ハッとしてシルヴィは箱に目をやる。何の装飾もない、子猫程度の大きさの木箱――慌ててそれを取ると、相手からなるべく遠ざけるように自分の身体へ引き寄せた。明らかに大事なものであることを示す動作だった。
そしてすぐふたを開け中身が無事かを調べる。赤い宝石が入っていることを確認すると、彼女は思わず安堵の息を吐いた。
(大丈夫、これがあればまだ……)
その吐息をどう捉えたか、人影は口元へ皮肉な笑みを浮かべると、やおら立ち上がった。さほど背丈はないはずなのに、その姿には奇妙に威厳めいたものがあった。
「その石はかなりの値打ち物だ、大切にしたまえ。さて、では明日はいよいよジェリコ村を目指す。目覚めたばかりで難儀とは思うが、君にも同行してもらうぞ。――もうすぐ日も落ち夜となる。今宵はゆっくり休むと良かろう。ちなみに命が惜しければ、逃げようなどと思わないことだ」
それが就寝の挨拶であったか、背後にある扉を開けると、もはやシルヴィを一顧だにせず風のように出て行く。一瞬外の廊下からランプの明かりが射しこむも、それもすぐに消えた。
後にはぽつねんと娘だけが残された。
独りになると、気が緩んだのか途端に不安が頭をもたげてくる。
得体の知れない集団に囚われた自分は、少なくとも彼らが目的を達成するまで解放されないらしい。そして人影の最後の台詞を聞くまでもなく、常に逃亡できぬよう監視されているのだろう。檻の中も同然の状態だ。助けを呼ぶことさえできそうにない。
とてつもなく心細かった。
飢えた狼の群れの中にただ一人いるような――。
だが、手にした木箱がそんな暗澹たる気分を少しだけ振り払ってくれる。それは間違いなく一筋の光明だった。
シルヴィは再び箱を開けると、赤い宝石を取り出した。いみじくも彼が言った通り、実に見事な逸品だ。手触りで本物だと確認すると、その宝石を扉の対面、ベッドの足側にある両開きの窓に向けてかざした。カーテンはまだ引かれておらず、彼女の位置からは暮れなずむ春の夕空が窺える。確かにもう夜は近い。
そうしてしばらく何かを待った。中に蝶の入った宝石は薄闇の中でも不思議と赤い輝きを失うことがなかった。
そのまま1分ほどが過ぎていく……。
「あっ」
ふいにシルヴィが驚きの声を洩らした。その顔に本来の生気が僅かとはいえ甦る。
見れば手にした宝石から、淡く輝く蝶が出現していた。それは石同様赤色をしていて、彼女の前をひらひら舞っている。本当におぼろげだが、しかし充分捉えることのできる光度だ。
娘は下手に動かすとそれが消えてしまうのを恐れて、じっと息を殺した。真摯な表情で宝石を掲げる姿は、心からの祈り捧げる篤信者を思わせる。もはや他に頼るものなくした、絶望の淵に立つ人を。
(ステファン……)
シルヴィの心中にはいつしか自分に微笑みかける一人の男性の姿が浮かんでいた。かえって切なさが募るほど、それは優しさに満ちた慰めの笑みだった。間違いなく今の彼女にとって唯一の希望、生きるよすがである。その笑顔を想うだけで、知らず力が湧いてくる気さえしたのだ。
そして改めて心に誓う。彼はきっと助けに来てくれる、だから自分も決して望みは捨てないと――。
かくして夜が刻一刻と深まる中、見知らぬ部屋で一人シルヴィは暗くなりゆく空の彼方を見つめ続けるのだった。辺りはとても静かで、そんな彼女を優しく見守るのは、今はただ空に顔を出したばかりの黄色い満月ひとつきりであった。