31章 最終決戦 ⑩
かくしてメルエスはふうと一息つくと、鞘入りの長剣を左肩に担ぐような恰好を取った。すでに鍔広の帽子は疾走の勢いで大分離れた後方に落ちてしまっている。あらわとなったその金髪を優雅に揺らすのは、相変わらず吹きすさぶ冷たい夜風だ。
眼下には、苦しみでぜえぜえと喘ぐカルナックが腹ばいに倒れ伏している。峻烈そのものの一撃とはいえ、その様を見るに、彼女が決してとどめを刺すつもりでなかったことは明白だった。
それがはたして情けなのかは、うかがい知ることなどできなかったが――。
「ちょっと強すぎたかもしれないけど、完全な急所ってわけでもないわ。まあ、しばらくそうして横になっていることね。私はこれから、あなたの使ってきた魔法の後始末をつけるから」
そして魔道士へ向かっておもむろに放たれたその言葉は、なぜか静かとしか言いようのない平温で彩られた声音だった。そこに相手に対する憎しみがあるはずもない。彼女はただ、淡々と今の状況を伝えるのみだったのだ。
「ググ、ま、待て……」
――だが対してカルナックは、いまだ苦痛に顔を歪めながらも必死に声を絞り出そうとした。明らかに戦意を喪失した瞳が、ひたすら嘆願するようにメルエスの方へ見開かれる。
「何をするつもりかは知らんが、と、とにかく待ってくれ……そうだ、儂にはまだリゲルのくれた莫大な金がある。それをすべてお前にやろう、そして儂と手を組み――」
「絶対にお断り」
むろん彼女がそんな甘く虚ろな餌に引っかかる可能性など1ミリたりとない。むしろカルナックがおぼろな意識の中耳にした声には、あけすけなまでの皮肉がこめられていたのである。
「どれだけお金があったって、それが決して幸せを約束してくれるわけじゃない。――何よりもあなたがそれを痛感しているのじゃなくて?」
そして女盗賊は、常にない憂いの色をその面につかの間浮かべ、やがて粛然とかつての名高き達人の元より離れていったのだった。
盗賊は足下の石床に魔法陣を置いている。
完全とは言えないまでもカルナックの魔力は明らかに弱まっており、彼女はわずかな障壁の存在を感じただけですんなり結界内へと侵入していた。
むろん目に映るのは、一級の芸術品に匹敵する精緻きわまる幾何学的図形である。
――だがそうして神秘の絵をじっと見つめながら、はたして目的は何かとなると、それは本人のみぞ知るとしか言いようがない。
すなわち、その答えこそがまさしく後始末とやらなのだろう。
「そ、そこで何をやろうというのだ……」
当然はるか後方のカルナックにとっても、彼女の行動は焦眉の関心そのものだ。声を鎮まざる苦痛に震わせつつ、魔法陣の方へ何とか問いを放つ。
対して相手は軽やかにそちらを振り向くや、妙に涼しさのこもった風で返したのだった。
「後始末って言ったでしょ? つまりいったんあなたの魔力をまっさらにするの」
「な、何だと……?」
そしてあまりに意表を突く返答にあぜんとするカルナックを尻目に、再び前方へ目を戻したメルエスがおもむろに剣を引き抜いた。
途端に青白光の中に現わる、紫の光。しかし先ほどまでの毒々しい焚火とは明らかに異なる、それは厳かで高貴な紫だった。
そう、メルエスの手に握られていたのは、淡いヴァイオレットをまとった細く鋭き長剣。
その刹那、光を目にしたカルナックが驚愕の声を上げた。
「む、紫の金属……それはもしや、オリハルコン――」
「フフ、さすがね。まさしくその通りよ」
「だが、それは王家の宝庫にあるもののはずでは……」
かくしてもはや奇跡に直面したかのような形相でことの推移を見つめる魔道士だが、しかし対照的に盗賊の反応はあくまで軽い。まるでさも日常で目にするありふれた出来事を語っているがごとくである。
当然、続いての言葉にもさして重みがあるとは思えないのだった。
「さあ、どうだか。まあ、とりあえず親の形見みたいなもんよ」
「形見、だと? ……な、ならばお前は――」
だがカルナックの心からの驚きは、最後まで放たれることはなかった。
盗賊がふいに長剣を高々と振り上げながら、割りこむように口を開いたのだ。
一見いかにもついでのようでありつつ、魔道士が耳にしたそれは、彼にとって完全なる死刑宣告以外の何物でもない。
メルエスの謎めいた正体や過去に対する果てなき憶測を、瞬時で原形なく吹き飛ばしてしまったような――。
「何にせよ、こいつならあなたの宝石も簡単に真っ二つにできるわ。<石使い>の力の源たる魔導石を」
そして間を置かずして、紫の剣は魔法陣のまさに中心へと鋭い剣風をまき起こしつつ、激しく打ち下ろされたのだった。
その直後、ガラスが砕けるような耳障りな音があたりにこだまして、次いでカルナックの言語を絶したすさまじき悲鳴が響き渡る――。
「や、やめ――グオオオオオッ!」
そして制止の声も最後まで言い切ることができず、絶叫を上げながら突如カルナックは激しい苦しみにのたうち回り出した。腹這いだったその身がいつしか反転して仰向けになり、これ以上ないくらい手足をバタつかせる。何よりもそのひん剥かれた眼と真っ赤に染まった顔を見れば、彼がどれほどの責め苦に耐えているのかは一目瞭然だった。
さすがのメルエスも、かような突然の修羅場を目にしてはしばし呆然とせざるをえない。
「……魔導石のエネルギーがこれほどだなんて。相当あの石の魔力を吸い上げていたのね」
むろん当のカルナックがそんな神妙な呟きを耳にするはずもなく、彼の表情は悶え苦しみながらますます惨状を増していく――。
しかし、その時メルエスははたと気づいたのだった。
表情というより、彼の顔そのものがある方向へ変化し始めていることに。
もちろんそれはカルナックの面には違いないのだが、何というか、明らかに次々と老化の印を示し出したのだ。しかも速度を如実なまでに上げながら。
顔を、手を刻む皺の数が一瞬でありえないほど増し、肌のつやも急激に失われていく。もともと白かった髪だが、きっちりと整えられた感が消え、むしろどんどん乱れに乱れた蓬髪と化していく。気がつけば筋肉が衰えたかのように体格そのものまで一回りも二回りも細くなり、さらに言えば身長さえもがかなりの程度縮みつつあるのかもしれない――。
そうしておよそ数分、ようやくその身悶えが治まったかと思われた時、メルエスは枯れた木のごとく痩せ細った一人の弱々しい老人の姿を、信じがたい思いとともにしかと目にしていたのだった。
「グルウウウ……」
彼女の前方では、ようやく回復してきたヨルグが押し殺した鳴き声を洩らす。それは前方の光景への警戒とも戸惑いともつかぬ、何とも言えない響きを持っていた。
むろんその感情は主人もまったく同様、眼前の絵はそれくらい常軌を逸する怪現象だったのだから――。
それでも一応気を落ち着けると、とりあえず魔法陣近くからそのままカルナックの様子を検分してみる。
もはや彼は仰向けのまま身じろぎ一つせず、一見完全無欠の亡骸に化したかと思われたが、しかしよく見れば胸のあたりがわずかに上下している。どうやら気絶しただけで、死んでしまったわけではなさそうだ。ただ固く閉ざした眼といいぐったり投げ出された両手足といい、どう考えても今の彼に微塵の力すら残っているとは考えられなかった。
何よりも、遠目でもはっきりと分かるくらい、あれほど強烈だった覇気が完全に消滅している。
「これが石使い最大の弱点ってやつか」
その様にどこか痛ましげな呟きを洩らし、そしてメルエスは背後を振り返った。
むろん足の下には変わらぬ形で魔法陣がある。
だがその真ん中、小さな五芒星に囲われた位置に、青くきらきらと光るものが散らばっていた。幾つかの小片の集まりである。一見すると、ガラス玉の割れた破片としか思えない。
しかし何を隠そう、これこそはカルナックの魔力の源泉、魔導石の成れの果てに他ならないのだった。
すなわち、魔力をみずからの内からではなく、外部の宝石より取り出す石使いたちの必須アイテム。彼らはそれゆえ、自分の力量をはるかに超えた強大きわまる魔法を、易々と使用することができるのだという。もちろんこのかつての石にも、尋常ならざるエネルギーがこめられていたのだろう。
だがあろうことか、カルナックが鬼火を呼び出した際寸時に魔法陣の中目にした石をそれと見抜いていたメルエスは、ここぞとばかりいともあっさり撃ち砕いてしまったのだ。
その瞬間カルナックの身内より一挙に膨大な力が流出し、あれよあれよと枯渇してしまったのも道理というものであった――。
そしてその無残な結果こそが、目の前の老人の姿というわけである。
気がつけば、主の消尽に影響を受けたものか、彼の魔法の杖も離れたところで見るからに腐りはて、もはや手に取る者なく哀れなまま転がっていた。
◇
残る力を振り絞って必殺の一刀を放たんとしたその時、ジェラルドはクロードが突如示した異変に鋭く気づいた。
人狼の猛烈なまでの上段蹴りを体勢を屈めて辛くもかわし、続いて足を振り下ろさざるをえないがゆえに生まれた相手の隙をすかさず狙い定めた瞬間である。むろん常の人狼の運動能力ならば時を置かずして次なる攻撃へ移るくらい朝飯前のはずであり、本来はとても手を止められる場面ではなかろう。
しかしジェラルドは剣を持つ手をいったんおさえ、しばしことの推移を見守った。
それくらい、如実に尋常ならざる光景が現前したのだ――。
クロードは冷たい夜気の中ぼうぜんと立ち尽くしていた。これまでのすさまじい運動量を物語って、全身から湯気がもうもうと立ち昇っている。にも関わらず戦闘態勢を解いたどころの話ではない、もはや目の前にジェラルドがいることも、いやそれどころか自分が何をしていたのかさえ失念したような、完全に気も虚ろな停止状態を呈していたのである。
まるで生死を賭した戦いをどうでもよいと思わせる、ありうべからざる重大な問題に直面したがごとくに。
「ジェ、ジェラルドさん……!」
後方で戦況を見つめていたシルヴィが思わず声を上げた。むろん彼女の目にもクロードの様相はとてもただごとではないと映っているはずだった。
だがジェラルドは声では応じず、ただ左手を振り上げて彼女に今は待てと合図を送る。彼の髭が同時にピリピリ細かく震えたのを見れば、何やら危険な空気を嗅いだのはまず間違いなかった。
それもあの忌々しい魔法の力が絡んだ。
彼にとっても、それはもちろんなるたけ出くわしたくない苦手きわまる存在なのである……。
こうして訪れたのは、相手の出方を探るというより、これからいったい何が起こるのか息を殺して待機するじりじりした間。
いつしか青白き月光は分厚い雲に覆い隠され、辺りの闇はさらにその濃度を増している。今がはたして何時なのか、周囲を見回したところで知るすべなどほとんどないだろう――。
そして。
「グルオオオオン!」
突如として雷鳴もかくや、人狼が夜闇を鋭く切り裂くとてつもない雄たけびを天に向かって上げ放ったのだった。
◇
「い、いったい何が起こったんですか……?」
ジェラルドの傍に恐る恐る近寄ると、シルヴィはか細く震える声で聞いた。その瞳は恐怖というより、戸惑いや驚きの色で揺れている。
今度は彼女がやって来るのを止めようとしなかった猫男は、前方の石畳へ視線を落としたまま静かにのたまった。
「――魔力が尽きたようだな」
「え?」
「正確に言えば、彼に与えられていた魔力の源が」
「そ、それって、まさか……」
剣士の無言が、まさしくシルヴィの信じられぬという問いへの確かな答えだった。いまだ不審そうではありながら、彼女はますます大きく眼を見開いて、ジェラルド同様眼下の光景をしかと見つめる。
「では呪いが解けて――」
そしてゴクリと唾を飲みこみ、そのままさらに横たわる彼の元へと近づいて行った――。




