29章 最終決戦 ⑧
「本当に、火の中へ……」
「フハハハ、これですべてが終わる、儂の完全なる勝利だ!」
呆然としたメルエスの呟きを耳にしたものか、カルナックが狂おしくも満足げに絶叫した。それは契約の果てついに召喚者の魂喰らうこと適った、悪魔の歓喜溢れるおたけびを彷彿とさせた。
「もはや止めることなどできん。一瞬で、死せる空気は大量放出されるのだ――」
そしてまさしく呵々大笑、地獄の住人でさえ恐れをなす狂的きわまる笑声が部屋内に轟きわたる。そこにもはや幾ばくかの理性すら残っていないのは、あえて論を待つまでもない。
そう、彼の目論見通り、げにおぞましき破滅の時は今すぐ訪れようとしていたのだ。
すさまじい速さで瘴気を引き連れ、そうして場がいよいよまったき魔空間と化していく――。
「ん?」
……だが、なぜか魔人の笑声はわずかな間で止まった。
代わってカルナックの面にふと怪訝な色が浮かび、哄笑は突如として空白めいた奇妙な静寂となる。
何よりもあれほど狂気の光に冒されていた瞳が、つかの間その輝きを如実に弱くさせる。
瞳の投入後、時間にしておよそ数十秒経った後のことである。
「何だ、何も起こらんぞ?」
そう、彼の訝しげもあらわな言の通り、いまだその眼前ではマンドレイクの焚火がメラメラ燃えるのみで、それ以外目につく現象は起こっていなかった。毒の空気どころか、バシリスクの瞳が覚醒した印さえいくら目をこらしても見当たらないのだ。
ただただ、北風ばかりが虚しくその勢いを増していく。
「どうしたというのだ? 準備に抜かりはないはずだが……」
そして思わず呆けたような声を洩らし、結界内よりなるたけ焚火の中を窺おうと身を乗り出す。完全にそちらのみへ気を取られた、まさしく呆然自失以外の何物でもない。
「まさか、これでは火勢が足りんというのか……ん?」
――かくしてなおもうわ言のごとく呟きながら、失敗の二文字がふと頭に浮かんだ、しかしその時。
彼の視線はつと飛翔せる一羽の小鳥を捉えていた。
水色の、この場に到底似つかわしくない可憐きわめた姿である。
どこから飛んできたのかも皆目分からぬその突然すぎる出現は、当然魔道士に思いきり目をしばたたかせる。
一瞬感覚がおかしくなってしまったのかと、正気に戻すため頭を強く振ったほどだ。
だが。
「まさか、なぜ本物の鳥が……?」
続けて焚火のすぐ真上で軽やかに小さく旋回し始めた姿を見て、知らずカルナックが信じられぬとばかりに零した。間違いなくそれは正真正銘の、生きている現実の鳥だったのだ。体長や全体の感じも平凡な鳩を彷彿とさせる。ただし不思議ときらびやかな水色の羽毛、さかしげな緑瞳の双方を除けば、の話だが。
いずれにせよ、瞬間カルナックがそこから何か異変が起こったと気づいたことだけは、まぎれもない事実なのであった。
「いったい何が起きて――」
「精霊っていうのは気まぐれでね」
かくして意味不明の事態に困惑ばかりが膨らんでいく彼が声を絞り出そうとしたその時、突如としてメルエスの一言が場に響いた。決して鋭くはないが、どこか重みみなぎっている、不可思議な声音だった。
「今まさに力が欲しいって時に限って、それを貸すのに渋ることがままあるの」
「せ、精霊……?」
「その時の気候条件や契約者の精神状態、あるいは精霊自体の機嫌にも左右されるなんていうけど、正味のところ理由はまったく分かっていない。とどのつまり、決して人とは容易に相容れぬ存在、てことになるかしら」
明らかに深い意味のこめられた言葉だったが、しかしカルナックは背後を振り返ることができなかった。彼の眼前ではいよいよ小鳥がその羽毛の水色を増し、今やほとんど輝きを放たんがばかり――その光景があまりに強烈過ぎて、とてもそれどころではなかったのだ。
そう、もはやその姿は、まさしく万金にも代え難き価値あるアクアマリンそのものとしか思えなかったのだから――。
「――でも、今日は本当に幸運だったわ。水の精霊が、すぐ私の声に応じてくれたんだもの」
そして宝石の化身となった小鳥が、さらに旋回速度を速め、羽ばたきまでもより大きくさせる。真下からもうもうと立ち昇る毒煙など、まるで意に介していないとしか思えない。
むしろ鮮烈な青光の舞は、かえってそれを見上げるカルナックに溢れんばかりの形容し難き力をありあり感じ取らせたのだ。
「精霊が応えただと……まさか、こんな短時間で?」
「そのまさかが奇跡的に起こったみたい。かくいう私もちょっと驚きなんだけど」
「では、この鳥は――」
目を血走らせ、身体の震えを止められぬまま、そうして魔道士はいつしか恐怖とも驚愕ともつかぬ感情をその顔に露わにしていた。目の前で繰り広げられる事態の、まさしく想像を絶するレベルの異様さがそうさせたのはまず間違いない。
すなわち、ますます彼の心は抗いようのない惑乱の嵐に侵されていく――。
そんなカルナックの真剣な問いに対して、しかしやけにあっさりメルエスが背後から答えた。彼女にとっては何一つ驚くにあたらない、そう明け明けと示す冷めた口調だった。
「水の精霊からの贈り物。〝霧の鳥〟っていうの」
そして眼前の光景に目を奪われていたカルナックには気づくべくもなかったが、その時彼女は、つかの間口辺に勝者のみが許される不敵な笑みをはっきり浮かばせていたのである。




