2章 猫目館にて(1)
大陸に勇名を馳せる七守護の一人、オーガスタ伯家。かの南方の雄の治める大いなる伯領の中でも、とりわけ商業が盛んな都市がある。伯領南部地方に位置し、伯都ドレクセルと肩を並べて繁栄の花咲くその城砦都市の名を、ギルバイスという。すなわちログレス各地の吟遊詩人たちが競って歌にする見事な活況ぶりは、そこに足を運べば欲しいものは何でも手に入る、そう評判が立つほどだった。実際都市の名物である広大な大市場では、市場につきものの食料品や道具類は言うに及ばず、薬から玩具、はては書物に至るまでどんな貴重にして珍奇な品でも目にすることができるのだ。見るからに怪しげな、呪術具の類でさえも。
ゆえにその品揃えの多彩さ、豊富さは、ギルバイスについてのある噂を生むこととなる。すなわち、ただの真っ当な商売で辺境の地にあんな商品が集まるわけがない。あの町の商人は裏の社会――例えば盗賊――と深い繋がりがあるに違いない、と。要するに盗品を仕入れ、それを次から次に売り捌いている、という寸法である。
えてして燦々と輝き放つ表側があれば、その裏にはどこまでも暗く胡乱な影が潜んでいるものなのだから……。
そう、一種の伝説ともいえるそんな話が堂々とまかり通るほど、そこは活気と混沌に充ち溢れた、欲望渦巻く都市なのだった。
何とも物悲しい調べが、室内に流れ続けていた。
広い部屋だ。真ん中に大きな机が鎮座し、それを六脚の椅子が囲んでいる。入口の扉から見て右側に蔵書でびっしりの本棚、左側に古風で厳めしい暖炉、そして床には複雑な幾何学模様で彩られた青色の絨毯。扉正面の窓は大きく取られ陽光が充分射し込み、また掃除も隅々まで行き届いている。これで室内の所々に巨大な甲冑や壺など大小様々なオブジェがとりとめもなく置かれて(飾られて?)いなければ、文句なしに趣味の良い内装のはずであった。
そんな部屋の中で、もうかれこれ四、五回は同じ曲を聴いただろうか。どこか子守歌めいたそれを奏でるのは、卓上の赤い小箱である。箱の側面についたねじと、中に収められた回転する銀色の円筒――ギルバイスでもなかなか見かけることのない、それは実に精緻な作りのオルゴールに他ならなかった。
店で売ればおよそ350コラム。商人としての習性が、男にそんな現実的な計算をさせる。とにかくかなりの貴重品であるのは間違いない。
とはいえ、彼はこれ見たさにわざわざギルバイスまで足を運んだわけではなかった。もっと切実な、極めて私情の絡んだ理由があるのだ。
卓上のオルゴールから、対面に座る人物へと視線を動かす。
その人物は先ほどから何回もそれのねじを巻いては、熱心に金属的な音色を鳴らしていた。いや、正確には聴かせていた。ただし男にではない。オルゴールのすぐ傍に座る、灰色の毛並みの猫にだ。真剣な表情で、真意は分からないが今かなり重要なことをやっているらしい。猫が時折洩らす退屈気味な欠伸にもまったく無頓着なようである。
この一連の行為が一体何の意味を持つのか男はよほど聞いてみたかったが、邪魔するのが憚られて、しばし声を出すのも出来ないでいるのだった。
すると何回目かの曲が奏で終わった。その余韻がつかの間部屋の中に残る。
対面の人物は、オルゴールが鳴り止んでも今度はねじを巻こうとしなかった。その代わり灰猫の方をじっと見つめながら、妙なことを呟いた。
「よし、これだけ聴けば大丈夫。もう完璧にこの『ローレライ』が唄えるわね」
目線からして猫に言ったのは間違いないが、まるで音楽教師が生徒に歌を教えているかのようだった。『ローレライ』がオルゴールの曲名らしく、それが課題曲というわけだ。もっとも肝心の猫はさしたる反応もなく毛づくろいを始め、はたして教師の言葉を理解したのか定かでないが。
猫のそんな様子を数秒見やると、やっと一仕事終えたとばかりに彼女が一つうなずいた。そして視線を男の方に向ける。
力強くも蠱惑的な眼差しが彼を捕える。
初めて会ってから多少の時間は経過したものの、男はいまだこの瞳に慣れることができない。見つめられると、どうしても心臓の鼓動が早まり落ち着きを失ってしまう。
それほどまでに、ある種の魔力を秘めた瞳であった。
そんな男の動揺など露知らぬ様子で、目の前の女性は紅茶の入ったカップを片手に話しかけてきた。その調子は外見に似ず、実にくだけたものだった。
「ねえ、飲まないの? 冷めちゃうわよ」
男の手前に置かれた、自らの持つものと同じ陶製のカップを指しての言葉だ。むろん紅茶入りだが、最初に一、二杯飲んだ後はほとんど口にしていない。指摘されて初めて気づきさすがにやや失礼な気もしたが、まさかあなたにずっと見とれていましたなどとは言えず、男は取り繕うしかなかった。
「いや、すぐに飲みたいのは山々なのですが、滅多にお目にかかれない真に上質なもののため、じっくり味わいたいというか……」
男の年の頃は30代前半。すらりとした体形で、豊かな金髪とよく整えられた口髭、それに理知的な青い瞳の風貌はどこか貴族的な雰囲気を漂わせている。ただし身に纏っているのは、ごくありふれた焦げ茶色の上衣と紺色のズボン、装飾品も左手薬指の銀色の指輪だけという至って地味なものだった。
「そう。でもそんなに良いものだったかしら?」
首を傾げてそう疑問を呈したが、あまり詳しくないのか女性のそれ以上の追及はなかった。紅茶を一口啜ってから再び口を開くと、もう話題は別のものになっていたのだ。
「さて、そろそろ全員揃うはず。ちょっとお待たせしているけど、もう少しだから」
それを聞いた男は、たちまち心底申し訳ない顔になった。
「何をおっしゃいます! そもそも私の方が約束の時間よりも早く来てしまったのです。本来なら、すぐこうしてお会いして下さっただけでも光栄というもの。お急ぎなさる必要はまったくございません」
「そう言われればそうだけど、まああいつら仕事のない時はどうせ暇を持て余してブラブラしているだけだし……それにしてもイーサンのやつ遅いな。どこで道草食ってんだか」
そしてカップを小皿の上に置くと、テーブルに頬杖をついた。
その時、女性の背後の窓から春風が吹き込んできた。風が、長い髪をそよがせる。ふわふわと揺れ動く、輝かんばかりの黄金色の髪――その目にも眩しい光景に、男はまるで魔法にかかったように改めて魅了されていた。やはり、これまで巡り会った中でも一、二を争うほどの美女といえよう。イメージとしては、穏やかで清楚というより情熱的で生気みなぎると言った方がしっくりくる。
何よりも、その大きな瞳が印象的だった。
男に向けられたそれは、眼尻のやや吊り上がったアーモンド形だ。その真ん中で、見る者を魅了してやまないエメラルドの瞳が一際強い光を放っている。本物の宝石にも引けを取らない輝きは、美しいだけでなくどこか妖しさも兼ね備えていた。
それほど高くはないためにかえって可愛らしいすっと通った鼻筋、小さいが形の良い薔薇色の瑞々しい唇、そして雪のように白く肌理の細かな肌。その細面を緩やかなウェーブのかかった黄金の髪がきらきらと縁取っている。
どれ一つ取っても溜息が出るほどの造形美だった。美の女神が自分の持てる全てを惜しみなく与えたとしか考えられない。
誇り高き舞姫、ルクソールの五貴妃と比べても遜色ない女性がこんな僻地にいたとは、実に驚くべきことであった。しかもよりにもよって、それが名うての盗賊だとは――。
放っておいたらそのままずっと女性を見つめていたかもしれないが、しかしふいに彼女が口にした一言が、男を我に返らせた。
「やっと来たようね」
するとそれが合図だったかのように、部屋の外からドタドタと廊下を駆ける足音が聞こえてきた。そのけたたましさだけで、かなり慌てていることが分かるほどだ。そして足音は次第に大きくなると、この部屋の出入口の扉――男の背後にある――前で止まった。
彼が後ろを振り返った。それと同時に、ギイイという年代物の音を鳴らして扉が開かれる。
現れたのは、ぜえぜえと息を荒くした一人の少年だった。肩も上下させていて、いかにも走ってきた感である。
大きなくりくりっとしたどんぐり眼、小麦色の肌、ボサボサの赤毛の12,3歳と見られる男の子で、上は白シャツとレンガ色のベスト、下は麻の茶色い膝丈ズボンという年齢相応の軽やかな格好をしている。
少年はその場で数秒ほど息を整えると、一瞬男に目をやり、そしてすぐその向こうの女性に声をかけた。
「……ぎりぎり間に合ったよな?」
それに対する女性の答えは、真につっけんどんなものだった。
「イーサン、5分遅刻」
「5分! 突然呼ばれたんだ、まあそんなもんだろ」
そして少年は室内をぐるりと見回す。
「ジェラルドもまだ来てないぜ?」
その時、少年から見て部屋の右奥、本棚の向こうに隠れるように設えてあった扉がガチャリと開かれた。反射的に彼の目がそちらを向き、中から出てきた人影を見た途端、知らずがっかりと溜息を吐いていた。
「……俺が最後ってことか」
「そういうこと。ま、今回はイレギュラーな件だからお咎めはないけど」
寛大に言う女性の傍らに人影がすっと立つ。どちらも灰色のジャケットとスラックスに身を包んだスマートな体形。だがそれよりも目を引くのは、やはり顔の方だろう。
紫水晶の謎めいた瞳をした高貴な白猫そのものの顔。いくら仔細に眺めてもとても仮面の類とは思われぬそれが、思慮深げに少年を見つめているのだ。初見の際男が仰天してしまったのも無理はない。
改めて考えるまでもなくかなりの怪人物だが、しかしなぜかこの場には何の違和感もなく馴染んでいる。あまりにも雰囲気が自然過ぎて、なぜそんな顔をしているのか聞くのが躊躇われるほどだった。
その猫男が、猫には似つかわしくないダンディな低音の美声を発した。
「私もついさっき<猫目館>に着いたばかりだ」
「でも時間ぴったり。ジェラルドにしてはちょっと遅かったけど」
余計な一言を足して少年をさらに落ち込ませると、緑色のサマードレス姿の女性は男の方を向き直りにこやかに言った。
「さて、これで仲間は全員揃ったわ。それでは早速仕事の話を始めましょう。よろしいかしら、ステファン・クリエさん?」
ステファンと呼ばれた男は、改めてこの部屋に集った奇妙な三人組を見つめた。
絶世の美女と生意気そうな少年、そして紳士然とした猫男――。
何とも統一感のない、というかまずありえない取り合わせだった。
高級なマホガニー材の机には、それぞれ横の長辺に二脚、縦の短辺に一脚ずつ椅子が置かれていたが、ステファンは扉を背にした内の左手に座っていた。彼の真正面に女性が座り、女性の右横に少年、そしてその向こうの席に猫男という座席配置だ。
四月だというのに午後の陽射しはかなり強く、ステファンには暑いくらいだが、女性と猫男は汗一つかかず涼しい顔をしている。唯一少年だけが、駆けつけたばかりでまだ汗が引かないのか団扇をパタパタさせていた。
交渉の口火を切ったのは女性だった。彼女はお代わりの紅茶を手に彼に言った。
「ようこそ、猫目館へ。ここは商人街の奥まった所だけど、迷わなかった?」
ステファンの答える声が、やや緊張を帯びる。
「確かに幾つか道を間違えるところでしたが、しかし私の友人にギルバイスの商人がおりまして、彼から詳しくこの辺りの地理を聞いていたので大丈夫でした」
「そういえばあなたも商人だったわね。出身はデインだっけ?」
「はい。デインで四代続く商家の者です。今はクリエ商会を経営しております」
彼は答えたが、そこに幾ばくかの誇りがこめられているのは否めなかった。ギルバイスほどではないにせよ、デインも商業の街であり、クリエ家はそこの有力な一族なのだ。
「クリエ? 結構な大金持ちじゃねえか!」
少年が本人を目の前に何ともデリカシーのないことを口にする。まさに直情径行型だ。
そんな姿を見てそういえば女性は彼のことをイーサンと呼んでいたな、などとステファンが考えていると、その内心を見透かしたように彼女が笑みとともに口を開いた。
「フフ、こちらも自己紹介しないと話が進むはずないわ……。今失礼なことを言ったのがイーサン・バトン、私の第一の子分よ」
「子分って、何だよそりゃ!」
抗議の声を上げる少年――イーサンを放っておいて、女性は次に猫男を紹介した。
「彼はジェラルド・ロザリック。見た目は御覧の通り猫顔だけど、剣の腕は超一流よ」
猫男――ジェラルドが礼に適った会釈をする。女性以上に見慣れぬ存在だが、その柔らかい物腰や落ち着いた雰囲気から、イーサンよりは話が合う気がする。猫、人、どちらとして接して良いのかはまだよく分からないが。
そして最後に、女性は自らのことを名乗った。
「そして私がメルエス・マグレータ。というより<猫つかい>の名の方が有名かしら。つまりは、あなたの会いたがっていた件の盗賊よ」