1章 夜の酒場
「おい、酒だっ、切れちまったぞ!」
一人の男の怒鳴り声が、狭い建物内に響き渡った。その音量は、数名の客が何事かと彼の方を振り返ったほどだ。
テーブルが4台、入口から奥に向かって一列に並べてある小ぢんまりした酒場である。厨房もあるにはあるが、それも料理人が一人で切り盛りできる小規模のものでしかない。
すでに外は夜のため中を照らすのは壁に吊るされたランプの光だった。何軒か似たような店が立ち並ぶ街道沿いの宿場町にあり、一応安宿も兼ねている。外観はあくまでみすぼらしい。しかしその割に早くもなかなかの繁盛ぶりなのは、皆安さと、そして何よりも香ばしい料理の匂いに誘われて来るからだろう――。
「はい、何でしょう」
大声を耳にした30代くらいの女性店員がすぐさま駆けつけると、一番奥のテーブルで壁を背にする男は不機嫌そのものの顔を隠すことなく向けた。まさしくクレーマーの態度というやつだ。対して店員の方は卓上の瓶が目に入り、尻込みするどころか腰に手を当て嗜めるように口を開く。
「あら、お客さん、ちょっと飲み過ぎだよ。もう三本目も空じゃないか」
「うるさい、金ならあるんだっ。とにかく早く持って来い!」
まるで吠える犬だがその剣幕に店員は驚くというより呆れたようだ。こういった客には慣れっこなのだろう。まったく怯んでいない。むしろなおも注意しようと続けて何か言いかけたものの、しかし男はもうこちらも見ず前方を睨みつけるのみである。その様子へしばし視線やり沈黙すると、やがて小さな溜息とともに結局足は踵を返していた――もちろん注文に応じるために。
「かしこまりました」
赤い服にエプロン姿の身がきびきびと卓を離れる。
「おうアンナ、焼き鳥をもう一つ頼むぜ」
かくて入口傍の厨房へ向かわんとしたその時、ふと横から彼女を呼び止める一人の客があった。飲んだくれる男のすぐ隣のテーブルだ。40絡みの金髪の男で、顔は赤くすでに出来上がっている。卓には他に五人いて、皆なかなか精悍な顔つきの男たちだった。
「焼き鳥だね、分かったよ」
「そうだアンナ、知っているか?」
と、メモを手に立ち去りかけた彼女を、金髪はさらに引き止める。この店の常連なのだろう、親しげな口ぶりだ。
「え、何のことだい?」
「盗賊だ。この近辺に出たらしい」
「盗賊?」
物騒な言葉に、店員が思わず目を丸くする。それを見て金髪は訳知り顔でうなずいた。
「ああ、確か小さな村だったな。結構な規模の一団に襲われたそうだ。放火もあったというからな」
「まあ怖い。それで何か盗られたりしたのかい?」
「いや、その村ってのがまさしく寒村で、お宝なんかあるはずもない。盗賊ども、一体何がしたかったんだか――」
その時だった。二人の話を中断させるかのようにドタンと何かが倒れる音が響いた。突然の異音に何事かと金髪も店員も思わず背後を振り向く。
それは、店の奥の側。
テーブルの向こうから、あの深酒の男が目を大きく見開いて彼らを凝視していた。立ち上がっており、恐らくその反動で椅子が背後へ倒れている。まだ酒は回っているはずだが、先ほどまでとは違い鬼気迫る異様な形相をしていた。
「ちょっとお客さん、どうかしたのかい?」
「村が襲われたと言ったな、どこの村だ?」
店員もさすがに異変を感じ探るように声をかけたが、男は構わず金髪に問うた。その灰色の瞳は血走っていた。
歳は30前後だろうか。ボサボサの黒い髪に、ほとんど手入れのされていない髭、着ているのも薄汚れた外套だ。あまり近寄りたくない風体であり、どこか職にあぶれた者すら連想させる。
「む、村の名前? いや、それは何と言ったか……」
まるで問い詰めるような口調に、金髪が戸惑い気味に答える。だが、それで相手が満足するはずもなかった。
「バルト―が、あの村が狙われたのか?」
「バルト―? うむ、記憶が……」
「そうだ、確かそんな名だったな」
金髪に代わって応じたのは、同じテーブルの男だった。彼の真向かいの席だ。赤毛の短髪で、口髭も赤い。自信ありげなその言葉を聞くや、男は自席から猛然と彼らのテーブルへ駆け寄った。そして赤毛のすぐ傍まで迫ると、ぎらついた目でさらに問いを重ねる。
「本当にあの村に盗賊が?」
「ああ、俺の知り合いの行商人の話だ。実際襲撃後あそこを訪れているから間違いない」
「いつの話だ?」
「そうだな、三日ほど前のことか」
それを聞くと、男はふいに両手で頭を抱えだした。何かを必死に考えているようでもある。そのただ事ならぬ様子を、店員の心配げな声が気遣った。
「お客さん?」
その一言は、しかし男をいきなり女性の方にくわと振り向かせた。思わずその眼力に彼女が二、三歩後じさったほどだ。だが彼の目はすぐにまた赤毛の方を向いていた。
「アルム家は無事だったのか?」
「アルム? 村人か? そこまでは知らんよ」
そう答えた後、赤毛は一応仲間たちを見やったが、特に大した反応はなかった。
「あんた、あの村に知り合いでもいるのか? 心配なら直接行って……」
気遣う金髪の声も、男の耳にはもう届いていない。他の客たちの視線にもまったく無関心だ。ただ引き続き片手で頭を押さえながら、厳しい顔で考えこむ。何かを迷っているのか、時折悩ましげに呟きも零れる。
「……やはり俺のせいなのか?」
やがて男がポツリと言った。悲痛と後悔に満ちた声音だった。途轍もない罪を犯して自責の念に苛まれる者の独白のように。
はたして、どんな苦しみが彼を捕えて離さないというのか――。
「おおっと、すまん!」
その時突然、苦悩に割って入る嗄れた声がした。金髪たちのすぐ隣のテーブルだ。
男が思わずそちらに目をやると、卓上にグラスが倒れ、中身の赤い液体が派手に零れていた。そこにはお揃いの長衣姿の者が四人座っていたが、その中の禿頭の老人が何かの弾みでやってしまったらしい。慌てて駆け寄った店員に、しきりに謝っている。
――瞬間、男の目がそこに釘付けになっていた。だが零れた液体にではない。テーブルの四人のいでたち、特に彼らが共通して首から下げている、七芒星のペンダントの方に、だ。
それは今の男にとって、まさに救いの手に他ならなかった。彼はやっとこれから自分が何をすべきなのか、天啓の如く気づいたのだ。
暗かった灰色の瞳に、小さいながらも輝きが灯り出す。それはすなわち、固く強かな決意の色――。
ふいに男が、金髪たちのテーブルにあったグラスの一つを掴んだ。酒が並々と注がれていたものだ。そして次の瞬間、席の一同が制止する間もなくそれを口元に運ぶと、躊躇なく一息で飲み干してしまった。あまりのことに、周りはポカンと見守るばかりである。
次いでグラスを卓上に勢いよく置くと、自分の席へ戻って行った。倒れたままの椅子の傍らには大きなずた袋が置いてあったが、それを取り出す。彼の唯一の持ち物らしい。それを背負うように持ち上げると、その重みに少しふらつきつつ、足を踏ん張り体勢を立て直しておもむろに歩き出した。足取りはまだいかにも覚束ない。行く手に立つ店員がかえってその異様な空気に、知らず道を開けた。その傍らを男が礼も言わず通り過ぎて行く。
しばらく呆けたようにその背中を見ていた店員だが、しかし男が出口に向かっていることにはたと気づいたらしく、慌てて声を掛けた。
「ちょっとお客さん、お代は?」
その声に、扉に差し掛かっていた男が振り向く。そして思い出したように懐に手をやると、中から布の袋を取り出した。
「釣りはいらん」
そう言って、袋を彼女に放り投げた。受け取った店員は、その重みに思わず落としそうになる。驚いて中身を確認すると、銅貨がぎっしり詰まっていた。この店の酒ならいくらでもお代わりできる金額だ。さすがに彼女はたまげた顔になった。
「これじゃ多すぎるよ!」
そう叫んだが、しかしそれと同時に酒場の扉が閉じられた。すでに男の姿はなく、彼は外の夜闇の中へ立ち去った後なのだった。