18章 アジト
「おいジャック、お前さっきから何ニヤニヤしてんだ?」
ジャックの昼下がりの甘美な夢想を破ったのは、同僚の野太い声だった。金髪の美女とむつみ合い中だったジャックは驚きのあまり椅子から飛び上がりかけ、慌てて手にしていたルビーを懐に隠す。そして動揺を悟られまいと努めて平静を装って隣席の無粋な男の方へ目をやった。
「……べ、別にニヤついてなんかいねえよ。ただボウっとしてただけだ」
「そうかあ? 相当スケベなツラしてたぜ」
自身も下卑た笑みを浮かべてなお食い下がる同僚は、丸顔で団子鼻の男だった。ジャックとともに今はありふれた上衣を着ている。30は超えているだろうか。まだ陽は高いというのにその顔は赤く息も一瞬でそれと分かるくらい酒臭い。すでに十二分出来上がった状態のようである。
強面の男は不機嫌そのものの顔でこの酔漢にやり返した。
「うるせえ、お前の方こそ酔っぱらった上に嫌な顔しやがって、どっちがスケベだってんだ。そんなことよりちゃんと仕事しろ仕事」
「へん、あいにくお頭は外出中で仕事なんかあるわけねえ。お前もここで管巻いてりゃ分かるだろ?」
「……まあな」
投げやりな団子鼻の言に渋々うなずくと、ジャックは周囲を見回した。
二人のいるのはやたらと広い部屋だ。中央にでんと巨大な長テーブルが置かれている。椅子もテーブル周りにずらりと並び、総勢30人は座れるだろうか。どうやら大きな屋敷の大食堂らしかった。
二人の他にも部屋には5,6人男たちがいた。やはりめいめいが卓上でいかにも高級な酒をぐびぐびやっている。彼らの風体からするとあまり釣り合っているとはいえない酒だが、その飲みっぷりにはまるで遠慮というものがない。中には超のつく一等品ワインを豪快にラッパ飲みするうわばみまでいる始末なのだ。
「まあ石入手の褒美にタダ酒がいくらでも飲めるってのは結構だが――」
ささやかな酒宴を一渡り見やると、ジャックが溜息混じりに呟いた。むろん彼も見事なまでの赤ら顔だった。
「いくら本番まで小休止とはいえこれじゃ腕がなまっちまう。石は手に入れたもののカルナックの旦那がそれを使うまでが俺たちの仕事だからな」
「……グリアモスの石。一体どんな力なんだろうな?」
「さあな。今頃旦那と坊っちゃんがこの馬鹿でかい屋敷のどこかで色々相談しているところだろうぜ」
何とも他人事めいた言葉。確かに彼らにとって上の者たちの思惑など知ったことではない。要は報酬さえきちんと支払われれば問題ないのだ。
「フワア……建国祭までには計画も終わると言っているが」
「そのつもりだろう。それで石の入手を急いだんだからな」
あくび混じりの団子鼻にうなずき返し、ジャックは手近にあった酒瓶をむんずと掴んだ。サージウス産の年代物火酒。普通に酒場で頼めば1000コラム、というか真っ当な市井の店にはまず置いていない。悪くないどころか悪党の子分には分不相応極まる代物だ。
だが彼はそれを何の躊躇もなく勢いよく喉に流しこむと、盛大にゲップした。ついでにさも眠そうに目をしばたたかせる。せっかくの高級酒にも関わらず、アルコールまみれの身体にはもはや味などどうでもよくなっているのは明白だった。
――それゆえだろう。ふいに同僚が口を開いた時彼はぼんやりしていてつい聞き逃してしまった。夢見心地がその一瞬破られ思わずポカンとした表情となる。鳩に豆鉄砲を当てればこんな顔になるかもしれない。だがそれでも何か妙なことを言われた気はしたらしく、横を振り向くと律義にも聞き返したのだった。
「おい、今何か言ったか?」
「だから女だよ、女」
待ち構えていたのはいかにも真面目くさった顔だった。さっきまでのトロンとした目がいつしか真剣味を帯びている。しかも声にまで何だか含蓄ある重さを乗せているのはこの男らしからぬ風といえよう。
「森で会ったあの女。すげえいい女だったが、ありゃ下手に関わると絶対大変な目に遭う。よほど器量の備わった男じゃなきゃまず手に負えないぜ」
「え?」
「お前も間違ってもああいうのには引っかかるなよ。まあ出会う機会がそもそもないだろうが」
そして明らかに戸惑いを見せる相手の反応などお構いなしに、男は重々しく一人うなずくのだった。
◇
豪華な調度の並んだ応接間に、微かに甘い香の匂いが立ちこめていた。伽羅だろうか、それは奥深く重厚で、そのかぐわしさたるや高貴で夢幻的な感さえある。むろん庶民がそんな高級品をこれだけふんだんに使えるはずもなく、馥郁たる香りはいわば果てなき虚栄心のこれ見よがしの象徴だった。
いずれにせよカルナックにとって自身の嗜好を満足させる逸品には相違ない。今はゆるやかな筒型衣をまとった彼は陶製の椀に入った茶を一口すすると、さも自慢げに言ったのだった。
「どうですかな? はるか南方の島に生える沈香から取れた貴重品です」
「……なるほど、確かに素晴らしい香りだ」
テーブルを挟んでカルナックと正対に座す威厳あるサーコート姿の若者がいかにもな賞賛の辞を述べる。だがそれとは裏腹に金髪の下の青く鋭い眼は芳香にさほど関心を持っているようには見えなかった。むしろ全体的には過度の苛立ちすら感じられ、その証拠に先ほどから落ち着かなげに卓面を指で叩いているのだ。
さすがにそんなあからさまな態度はカルナックをしてのんびり茶を楽しませず、口元に微かな苦笑を浮かばせる。
仕切り直して、彼は相手を気遣うように穏やかに述べた。
「失礼。今はそれどころではありませなんでしたな。――ではさっそく本題に入ると致しましょう」
そして脇から小さな木の箱を取り出すと、若い男――森でカルナックとともにいた貴族風――の方へ差し出した。それはゆっくりと、あたかも王侯に対するがごとき丁重さだった。
「おおっ」
豹変した貴族風が思わず身を乗り出し、感嘆とも畏怖ともつかぬ呻きを洩らす。瞳までふいに狂熱でギラつきだしたほどだ。しかも口元には抑えきれない笑みさえ浮かび、箱に尋常ならざる興味をもったのは論をまたなかった。
(しょせんは玩具を与えられた子供か)
そんな相手の様子に魔道士が心中で呟いた。仮面下の眼は気をたかぶらせる若者とは対照的にどこまでも冷めている。それもそのはず、ある不遜きわまる思いがその時託宣のごとく彼をとらえていたのだ。
すなわち人は大別すると二種類に分けられる。
ただ単に力を追い求める者と、手にした力で何かを成しとげたい、そう願う者。
そして自分は間違いなく後者の人間、はるかに高邁なる理想の持ち主。おのれの昇る地位しか見えていない放蕩息子と一緒にされては困る――。
「これこそグリアモスの石!」
ふいに響き渡った歓喜の声が魔道士の思考を中断させた。貴族風が顔を紅潮させ、熱のこもった目で手にした箱の中を覗きこんでいた。
「ついに私は手に入れたぞ! これでいつでもあの男を滅ぼすことができる!」
続いたのはまるで舞台役者のセリフのような大言だが、カルナックは大して共感を覚えなかった。むしろますます心内は冷え切って行く。いくら伝説に名高い賢者の石であろうと道具は道具、しょせんは目的のための一手段にすぎないのだ。それを手に入れただけで馬鹿みたいに大はしゃぎしていてはこの先が思いやられるというものだろう。
――しかしもちろんそんな心の声はおくびにも出さず、彼はいかにも肯定する感を乗せて言うのだった。面従腹背を地で行くように。
「さよう、これで計画は成功したも同然。グリアモスの石の絶大なる力はついに我らがものとなったのです」
貴族風が箱の中に見たのは、あえかな輝きを放つ金銀二つの石だった。殻つき胡桃とほぼ同じ大きさのものである。それは箱底に敷かれた赤い布の上に、何とも恭しく並べて鎮座させられていた。
「これが本当に、前に見たあの黒い石だというのか……」
どこか放心したように貴族風が呟く。錬金術の脅威を目の当たりにした者の畏怖に満ちた表情だ。確かについ先日まで炭のごとくだった面影はこの二つの石にはまるでない。彼の想像の埒外にある何かが行われたのは間違いなかった。
「むろん。バシリスクとコカトリス、二匹の獣が見つめ合う――すなわち反応を起こしたのです。いわばこれは本来のグリアモスの石としての姿、秘められた力の解放された姿となりましょう」
「では、もう使えるということなのか?」
「ええ、充分な経験のある錬金術師ならば」
そうあっさり言われると、思わず若者は生唾を飲みこんだ。さすがにその言葉のもつ重みに気おくれを覚えたのだろう。今さらながら自分がいかに恐るべきことを成しとげようとしているのか、明瞭に実感したようでもあった。
「そ、そうか、分かった……ではこのうちの一つは私のものだな?」
「むろんです。どうぞお好きな方をお選びください。ちなみに金色がバシリスク、銀色がコカトリスです」
説明を受けて貴族風は二つの石をしばし見比べた。もっとも両者は色以外に何一つ差異はなく、彼の美意識くらいしか決め手になりそうなものはない。結局さほど間を置かず、好みなのか銀の石の方に手を伸ばしていた。<コカトリスの瞳>はまるで市場の品のごとくあっさり掴み取られた。
「ほう、コカトリスですか。私はてっきり王者にふさわしく金のバシリスクを選ぶと思っていたのですが」
「黄金など飽きるほど見てきた、今さらありがたがるものでもない」
何とも大胆なことをうそぶくと、銀色の石を自分の目の前にかざしじっくり眺める。恐れの隠せぬ表情だ。
「カルナック、お前の教えてくれた通りの力がこの小さな石に宿っているのだな」
「おおせの通り。ゆえに決して使い方を誤ってはなりません。それくらい強力なものなのですから」
そして魔道士は口調をかしこまったものへ改める。
「ではリゲル殿、いよいよあなた様の本願が成就される時がやって参ります。その時に備えて、早めにドラゴールのプラド家にお戻りになられた方がよろしいでしょう。色々準備もありますゆえ」
「ウム、そうだな。お前の尽力のおかげで私もようやくメオン王子を救い出せそうだ。礼を言う。――お前もガーセンで宿願である復讐をはたすのだろう? 幸運を祈っているぞ、カルナック。いや、アビドスのジール・アゼール」
そう高らかにのたまうと、リゲルと呼ばれた若者は懐から取り出した布の中へコカトリスの瞳を包みこむのだった。
「……その名は決して口外いたしませぬよう。いえ、今日を限りにもはや我々は会うこともありません。私と知己であったという記憶も失くして頂きたい」
「もとより承知。私とお前が会ったことは一度もない……ん?」
リゲルが椅子の背もたれへ身を預けいかにもリラックスして言った、その時だった。彼は何かに気づいたらしく、部屋の右手に目をやった。青い眼を訝しげに細める。
「カルナック、猫がいるぞ」
「猫ですと?」
指摘されてカルナックも同じ方向へ視線を移した。彼は部屋の扉を背にした、下座の方に座していた。
二人の視線の先には大人の腰の高さほどの棚がしつらえてあった。部屋の壁幅にピッタリ合わせた横長のもので、三段になった中にはぎっしりと本が入っている。いずれも重厚で高価そうな本ばかりだ。また天井板の上には豪華な壺などの骨董品が威圧するようにずらりと並び、それらだけでも庶民が腰を抜かす金額になるのは確実だった。
「む、ミロか」
カルナックが声を上げる。リゲルの言う通り、骨董品の列の真ん中あたり、小さな白い女神像と虎の置物の間に猫の姿を認めたのだ。見つかった猫はじっと座ったまま目をパチクリさせている。
彼はさして驚いた風もなく言葉を継いだ。
「この館で飼っている猫ですが、普段は絶対客間には入らないはず。……なぜお前がここにいるのだ?」
「ニャアオ」
自分が注目の的となっているのを知ったらしく、黒白まだら毛の猫は客人に向かって一鳴きした。首に金の環をはめたいかにも毛並みの良い上品な猫だ。その場で目の前の二人をじっと観察するように見つめている。
「どうした、ご客人がそんなに珍しいか?」
さすがに妙に思った魔道士が声をかけると、猫はふいに視線を逸らしサッと棚から飛び降りた。小さな身体がふかふかの絨毯へと着地する。首環についた鈴が軽やかな音を立てた。
「いつからこの部屋にいた?」
「恐らく召使いが茶を運んで来た時いっしょに紛れこんだものかと。ミロにしては珍しいですが。……まあちょうど議題も尽きたところです。我々もこれで話を終えることと致しましょう」
もう見物に飽きたのか思い切り伸びの姿勢を取り出した飼い猫から再びリゲルに視線を戻し、仮面の男が言う。指輪をはめた右手は大事そうに小箱を自らの方へ引き寄せていた。
「分かった。後はお互い成功を祈るとしよう」
応じたリゲルはさも満足げである。その顔に浮かぶのは憎々しいまでに不遜な笑みで、むろんそこには先ほど石に対して示した畏怖など跡形もない。まさに意気軒高というべきか。
――そしてそれが散会の辞ということなのだろう。彼は椅子の背もたれに傲岸にふんぞり返ったまま、さながら戦の勝利者のごとく高らかに声を響かせたのだった。
「では輝かしい未来を祝して杯を酌み交わそうではないか。カルナック、酒だ、酒を用意しろ!」
かくして胡乱な会談は壮麗なる大邸宅の一室で密やかに終わりを告げた。二人以外で密約を耳にしていた者といえば、のんびり丸まって毛づくろい中のぶち猫一匹くらい。しかし強気な大声の瞬間彼がふいに我に返ったようにビクンとし、次いで周囲をキョロキョロ見回したのには、その時魔道士たちはついぞ気づくことがなかったのだった。




