プロローグ
どす黒い煙がもうもうと立ち昇り、漆黒の夜空に飲みこまれていく。
何かの爆ぜる音、何かの割れる音、何かの砕ける音。
小さな木造の小屋が、業火に包まれていた。
全体を覆い尽くすは、踊り狂う火竜の如き紅蓮の炎。小屋の原形は、今まさに崩れようとしている。中に人がいたとしても、間違いなく焼け死んでいることだろう。
――夜間にやたら赤々と目立つ、そこは周りをぐるりと木柵で囲われた小さな丘の頂上。寂れた寒村の、北側の端。
そんな炎上する建物の前で、男は一人じっと大きな石に腰かけていた。それは眺める、というよりは監視しているというべきか。
小屋の正面6デール(6メートル)ほどの位置、柵の切れ目の脇である。丘の下り口で、風向きによっては火の粉が飛んでくる距離だ。耳をつんざく轟音も凄まじい。
なのに、まるで動じることなく焼け落ちる巨大な影を見つめている。
その佇まいも奇妙だが、もっと怪しげなのは男の格好だった。まごうかたなき黒ずくめ――全身を、頭の上から足先まで、黒のつなぎで包みこんでいるのだ。唯一、その服は顔の部分だけが露わになっている。炎の赤に染まるそれは、口の周りを一周するドーナツ風の分厚い髭が特徴的な、目つきの悪い中年男の顔だった。しかも太い腕と足をした、実に逞しい身体つきである。腰には幅広のナイフも吊るされており、とても真っ当な職業の人間とは思われない。
そもそもこんな盛大な火事場を目にしても、何ら心を動かされた気配がない。
――男は手で髭をしごき、そうしてその場で何かを待ち続けている。
「お頭」
と、しばらくしてふいに男の背後で声がした。誰もいなかったはずのそこに、いつの間にか人影がひっそりと立っていた。髭の男と同じく黒のつなぎを着ているが、彼に比べれば大分細い体格だ。
髭面は振り返りもせず、まるで独り言のように突然の来訪者に声をかけた。
「女は見つかったか」
「いえ、徹底的に村の中を調べましたが、まだです」
感情の籠もらぬ声で、細身が答える。大して期待していなかったのか、髭面の表情もほとんど変わらない。
「村人は何か喋ったか」
「それが、ジムの奴が一つ情報を得てきました」
だがその一言に、初めて彼は細身の方を振り返ったのだった。
「ほう、どんな情報だ」
「酒場の親父の話です。俺たちがこの村を襲う少し前、夕暮れ頃に一人の若い女が村から出て行くのを見たと言っています」
「若い女――あの石は手にしていたのか」
「遠目で見た程度で親父はそこまで確認したわけではありませんが、まるで逃げるようだったのが記憶に残ったそうです。ちなみにその際店前に女が落とした頭巾を保管しています。後で届けるつもりだったようです」
細身が喋る間、髭面のその手は黒々した髭に当てられたままだった。
「その娘の素性は分かるか?」
「いえ、ちらっと見かけただけの彼には誰だか分からないとのことです」
「そうか」
髭にやっていた手を離す。そして男はおもむろに立ち上がった。
「逃げた若い女がアルム家の者に違いあるまい。どういう手段でか俺たちが来るのを事前に察知したようだ。だとしたらもうここに留まっている意味はない。リアム、手下どもを集めろ。女を追うぞ!」
「ハッ」
細身はそう応じたものの、しかしその場に立ち止まったままだった。なおも髭面に言うことがあるようだった。
「お頭」
「何だ?」
「あの男はどうします? 広場の辺りでまだ詩を書いているようですが」
その言葉に彼は軽蔑にも似た表情を浮かべる。
「フン、妙な奴だが、連れて行かんと女の追跡ができん。詩は後にしろと言え」
「では、そのように」
細身は今度こそ背後の夜闇の中へ姿を消した。来た時と同様に、ほとんど足音は立たなかった。後には髭の男と、そして崩壊寸前の小屋が残される。髭面はそちらへ振り向いた。
そして誰に言うともなく、一人ぼそりと呟くのだった。
「どこに行こうが必ず見つけ出してやる。せいぜい逃げ回るがいい」
その時一際大きな音が轟いた。小屋の天井がついに焼け落ちたところだった。断末魔の如くそれは響き渡り、そして炎の中に飲みこまれていく。全壊ももう時間の問題だ。
髭面の眼に、その真っ赤な炎が映りこんでいる。それはまるで自らの凄まじき執念が明々と光を放っているかのようだった。