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追放悪役令嬢のビフォーアフター

作者: 伊織ライ

 ジイジイと騒がしい蝉の声が耳に付く。この季節になると今でも昨日の事のように思い出すのは、あの日の夜会の光景だ。

 念入りに時間をかけて一分の隙もなくセットした縦巻き髪に、腕利きの侍女たちが施した化粧。透けるように薄い最高級の絹を何枚も重ね、宝石を散りばめて仕立てた真紅のドレス。磨き上げた白い肌は内側から光り輝くようで、あの日の私は人生で最も美しかった──はずなのに。


「アルベルティーヌ・オティエ! 貴様との婚約を今ここに破棄する!」


 生まれた時から決まっていた婚約者、大国ファブルの王太子であるバーテルミー・ド・ファブル。輝く金髪に空のような青い瞳のその人は、この世の全ての怨みを込めたかのように、美しい顔を歪ませてそう言った。


 

 バーテルミー殿下は私の2歳年上で、王族でありながら魔力が少なかった。いや、他の王族と同じかむしろ多い程の魔力の器はあったのだ。しかし、生まれてすぐの頃に敵対勢力による襲撃を受けて大怪我をし、魔力漏洩症を患ってしまったのだ。回復すればその分だけ漏れ出してしまう魔力。それは幼い殿下の生命力をも奪い、しかし王族特有の濃厚な魔力は周囲の者にまで影響を与えた。ある程度身体が育てば、魔力の制御が出来るようになる。そうすれば漏れる魔力を抑え、専門家による治療も施せるのだ。それまでの間、殿下の側で魔力を補う人間が必要だった。魔力の弱い者たちは、総じて殿下のお側に侍ることが出来ない。かといって何処の馬の骨ともしれない高魔力保持者を、敵対勢力の多い殿下の側に近付けることも出来ない。そんなジレンマに皆が悩まされていた時に生まれたのが、私だ。

 忠臣であるオティエ公爵家の娘であり、そしてその小さな身体には溢れんばかりの魔力が宿っていた。

 赤子であっても男と女、その2人を文句なく共に過ごさせる為、私たちの婚約は結ばれたのだった。


 赤子の私から魔力の提供を受け、バーテルミー殿下はすくすくと育った。そして8歳になる頃には無事手術を受け、魔力漏洩症は完治したそうだ。とはいえ穴が塞がっても器いっぱいに魔力を溜められるようになるわけでもなく、ただ命の危険がなくなったというだけなのだけれども。


 思うに殿下は、王族なのに魔力の少ない自分を恥じていたのだろう。そして同じくらい、婚約者の私が膨大な魔力を持つことを妬んでいた。

 私はただ、殿下に出来ない事があるならば配偶者たる私が補えばいいと思い、努力していただけなのだが。

 

「お前は随分と偉くなったものだな? 王太子たる俺に指図するとは」

「──うるさい! 指図するな、去れ!」

「女のくせに生意気なことだ。お前は黙って後ろに控えていればいい!」


 おそらく、敵対勢力からの煽りもあったのだと思う。オティエ公爵家は力のある家だった為、その分敵も多かった。私を追い落とせば王太子妃の席が空くのだから、老獪な貴族たちはあの手この手で私の悪評を殿下に囁き、少しずつ毒を染み込ませていったのだろう。

 気付いた時にはもう遅かった。殿下のためにと必死で努力した勉強も、妃教育も、磨いた美貌でさえも、ただ殿下の劣等感を刺激するものでしかなくなっていた。それでも隣に立つことを諦められず、学園で殿下の後を追い回す日々。

 愛されない婚約者、惨めな女と周囲から嘲笑われていることは知っていた。それでも背筋を伸ばし、顔には微笑みを浮かべ、殿下の苦手な授業のノートを作っては差し入れた。問題になりそうな行動があればこっそりと諌めフォローし、昼食に誘っては断られ。

 意地、だったのだろうか? 生まれたその日から、私の命は殿下の為に存在していたのだから。家族と同じ家に暮らすこともできず、子どもらしい遊びも甘えも許されず。殿下の為に生まれ、殿下の為に育ってきた私が、殿下の側を離れることなど出来るわけがないと。そうでなければ、私の存在そのものが無価値になってしまう気がして。

 好かれていないことは分かっていたのに、しがみついてしまったのだ。どれだけ努力しても、それが逆効果になるなどと気付かないままに。


 愛とは一体何なのだろうか。

 幼い頃の私と殿下は、まるで兄妹のように仲良く過ごしていたと聞く。しかし私が物心つく頃には既に、あの青い瞳には憎悪しか浮かばなくなっていた。

 私は殿下を愛しているから、それを邪魔する者を排除する権利があると思っていたけれど──こうして離れてみると、ひたすらに嫌悪されてきた相手を愛することなど出来るのだろうかと疑問に思う。

 必死だった。殿下の隣に、あのふわふわとした綿菓子のような少女が纏わりつくようになって。そこは私の場所なのだと、奪われるわけにはいかないのだと。


 王宮で私に仕えてくれていた侍女のアン。心が折れそうになった時、よく通った東屋の近くに私の好きな花ばかりを植えてくれた庭師のダン。美容にも消化にも良く、私の好む味付けを研究しては作ってくれた料理長のジム。

 殿下が好まれないからと、殿下に会う予定のない日に私室でだけこっそりと着た青色のドレス。勉強の合間に読んだロマンティックな恋愛小説。厨房の裏でこっそり誰かが世話をしていた黒い猫。私にあてがわれた執務室へと向かう近道にひっそりと咲く白く小さな花。

 もしかすると私が本当に愛していたのは殿下ではなくて、そういうものだったのではないか。

 あの、嵐吹き荒れるような王宮で過ごす日々の中では、気付けなかったのだ。そのひとつひとつがどれだけ私の心を癒し、大切に思っていたのかなんて。



「──あの……っ! ルミ様のこと、解放してあげてくれませんか……?」


 妃教育の後、執務室から王宮に与えられた私室へと向かう裏の庭園。突然飛び出してきた彼女は共も連れず、怯えたようでありながらもどこか得意げな──余裕、のようなものを感じさせた。

 伊達に生まれてからずっと国1番の教育を受けてきたわけではない。些細な表情からも読み取れる情報は数多ある。彼女は確かに「愛されるものの自信」を纏っていたし、それはこの場所が許された者しか通ることの出来ない王宮の裏庭園だということからも察せられた。


 本来、彼女の身分で私にいきなり話しかけることなど許される事ではない。ましてや無作法にも飛び出してきた挙句、私の進行方向を塞いでいるのだ。控えていた護衛は腰の剣に手をかけ、今にも飛び出そうとしている。

 殺気でピリつく彼らに手を振って、下がらせたのは相手が彼女だったからだ。ふわふわと、甘い綿菓子のような。

 

「──解放、とは?」

「ルミ様は、貴女といると心が休まらないって言ってます! いつも比べられて、悲しい思いをして、そんなの可哀想! だから、だから……っ、貴女が近くにいない方が、幸せになれると思うんですっ!」


 私は殿下に愛称呼びを許されたことはない。許可を求めたこともないのだけれど。

 ルミ様、ルミ様と連呼されるそれが妙に可笑しくなってフッと息が漏れた。


「……残念ながら私が独断でどうこうできる話ではなさそうね。次の予定がございますので、失礼いたしますわ」

「──ルミ様は私を愛してるって言ってくれたわ! だから──待っ、きゃっ!」


 踵を返した私のドレスの袖をぐいと引かれ、咄嗟に後ろを振り返る。施された最高級の絹のレースがビッと嫌な音を立てた。アンが用意してくれた、お気に入りだったのに。

 庭園の石畳にヒールの踵を引っ掛けたらしい彼女はぐらりと身体を傾け、つんのめるようにして体勢を崩した。いつも殿下にべたりと張り付いているとは思っていたが、体幹も弱いようだ。重そうな豪奢なドレスは殿下からの贈り物だろうが、この様子ではダンスも出来るのかどうか。淑女は案外体力が必要なのである。

 流石に地面に転がる少女を放っておくわけにもいかず、手を引いて起こそうとした、その時。


「何をしている!!」


 白馬の王子様よろしく颯爽と現れたのは、他でもないバーテルミー殿下であった。


「……殿下、ご機嫌麗しゅう。この方が躓いてしまわれたので、手を貸すところでしたわ」

「──ルミ様ぁ! アルベルティーヌ様がぁっ!」


 その大きな目からポロリと涙の雫を溢した彼女は私にだけ見える角度で口元を綻ばせた。


 ──なんだか、疲れたわ。勉強と執務に追われて熱を持った目の裏がじんと痛んだ。



 その翌日から、学園では私が殿下の最愛を妬んで嫌がらせをしているという噂が流れるようになった。

 令嬢は殿下だけではなく、その側近や見目の良い高位貴族の嫡男にも粉をかけていた。また貴族としての礼儀も弁えておらず、スカートをたくし上げて廊下を駆け回ったり、男性にべたりと胸を寄せながら大口を開けて笑ったり。その有様に眉を寄せる女生徒も多く、学園内においては微妙な立ち位置にいた。それでも微妙、程度でとどまれたのは他でもないバーテルミー殿下が寵愛していたからこそだ。

 次期王たる殿下が目をかける彼女が今後どのような立場になるかはまだ予測がつかない。ましてや婚約者である私がそれに対処をせず、静観しているのだ。

 親切な者たちは、しきりと「排除すべきです」と進言し、頼んでもいない彼女の所業を報告してきたりもする。それを曖昧な微笑みで流して見て見ぬふりをする私に、王妃の資格無しという声さえ聞こえてくる始末。

 排除しようがしまいが、もはや結果は変わらないというのに。


 あの日彼女は言った。殿下が可哀想だと。確かにそうかもしれない。生まれながらに命を狙われ、大怪我を負って大病を患い。将来を選ぶ自由はなく、厳しい教育の下、国民の命をその肩に背負い。結婚相手も自分で選ぶことは許されないのだ。

 心から好いた相手と過ごす時間は、確かに心休まるものかもしれない。未来の国王としての振る舞いに小言を言うこともなく、溜めた執務についての苦言を呈することもなく。小動物のように甘え、擦り寄り、柔らかく包み込んで。それは確かに、魅力的なのだろう。

 だけれど、王が幸せなら民も幸せになるなどという甘い世界ではないのも現実なのだ。生きるには金がいる。残念なことに諸外国とは戦争もあり、国内においても天災があり、領地同士の諍いがあり、問題は山積みだ。

 民が納めた税で豪奢な衣服を纏い、贅を凝らした食事を食べ、シャンデリアが輝く大広間で優雅なダンスを踊っている間にも人は死ぬ。

 明日食べるものもなく路上で死にゆく者と、心休まらぬ婚約者を持つ殿下では、一体どちらが可哀想なのだろうか──?



「アルベルティーヌ・オティエ! 貴様との婚約を今ここに破棄する!」


 そうしてやってきたのが、あの夏の日の夜会であった。

 女を侍らす喜びを覚えたらしい殿下は王太子としての執務を滞らせるようになり、私はその皺寄せを受けて日々激務に追われていた。

 睡眠時間は限りなく少なく、目は霞むし身体は重い。けれど夜会とて楽しむ為のものではなく、殿下の婚約者として出席は必須の公務だ。

 半分眠りながらも優秀な侍女たちに支度を整えて貰い、最高の装いでもって武装して挑んだ場であったのだ。


「……理由を、お伺いしても?」

「ハッ、白々しい。貴様は俺の愛するこのクラリッセを虐めていただろう! 心根の卑しい女に未来の国母の座など相応しくない! そもそも俺はお前のことが嫌いで堪らなかったのだ! 睨むようなきつい目も、馬鹿にするような澄ました態度も、可愛げのないその巻き髪の一本でさえ!」


 突然始まった王太子の糾弾に、会場はシンと静まり返っていた。唯一入り口の近くでは、オティエの父が鋭い目付きで側近らしき者に指示を出し、扉から外に出しているのが見える。流石、国の頭脳と噂されるだけのことはある。既にこの騒ぎの状況を読み、事態の収束の為に手を打ったのだろう。久々に姿を見たが、少し老けただろうか。

 オティエ家の者としてこのような事態を引き起こしてしまったことに関しては、申し訳なく思う。けれど、公爵(ちち)からしても私は娘ではなく、数ある道具のうちのひとつであったのだ。おそらく替えの手段も用意があるだろうし……いずれこのような事になることも、予想はしていたのだろうと思う。優秀な人だから。


「畏まりました。殿下の、仰せのままに」


 

 公爵の手が回ったのか、あのような大仰な断罪劇の割に私は穏便に国を出る事となった。

 婚約は破棄となり、公爵令嬢としての立場を失ったけれども。命を取られることもなく、最低限ではあるが国境までは馬車と護衛も付いた。公爵は私という駒を即座に切り捨てる事で、家の立場を守ったのであろう。領民の為にも、正しい判断だと思う。恨みは、ない。

 最後まで私について来ようとした侍女や側仕え達には、紹介状と多めの給金を渡して置いてきた。

 殿下はあの時、私に罪を着せてまで断罪しようとしていたのだ。私が視界に入ること自体が苦痛だったのだろう。近くにいればいつまでも比べられることになる。だから、消したかったのだと思う。

 そんな私に付いてくることなど、許すわけがない。未来の王妃に仕えていた者達なのだ。私はともかく、彼らを失っては国の損失になる。

 流石にそのまま次の婚約者に付けとは言えなかったのだろうし、彼らもそれを断固として拒否した。国のトップで活躍できる者達だと分かってはいても……そのことは、少しだけ嬉しく思った。



「アルベルティーヌ様……」

「ここまでご苦労だったわね。本当にありがとう。あとは、私がなんとかするわ。気を付けてお戻りなさい。もし困ったのならオティエの騎士団に声をかけなさいね」


 国境まで護衛してきた騎士達が、なんとも言えない顔で私を見る。国随一の強さを誇る屈強な男達が眉を下げ唇を噛む姿が、迷子の犬のようにも見えてくる。


「ふふ、大丈夫よ。こう見えても王太子と王太子妃の公務をまとめて引き受けられるほど、有能だと言われていたんだから! 仕事なんていくらでも見つかるでしょう。それにほら、私って美人じゃない? 街に出たら、素敵な殿方にみそめられたりしてね。実は物語のような恋に憧れていたのよ! だから……ね? 大丈夫よ。きっと……幸せになるから」


 私がふざけて笑うと、迷子の犬達は一際強く歯を噛み締めて、それから大きく声をあげて笑った。


「は……ははは! 違いない! お嬢様は国1番の美人です!」

「そう、そうですよ! 許されるならうちの嫁に来て欲しかったくらいです!」

「お前抜け駆けは卑怯だぞ!」

「お嬢様なら……お嬢様は絶対に幸せになります!」


 この国にいれば、下級貴族の令嬢の家庭教師くらいならすぐにでもなれただろう。いくら醜聞を負ったとはいえ、最高の教育を受けてきたのだ。地方の領地でひっそり住み込みの仕事などすれば、食うに困ることはなかったと思う。

 しかし他国に出れば、今の私はただの平民だ。まず貴族と繋がりを持つのも難しいだろうし、そもそもその前に破落戸に捕まれば売られるか、殺されることもあるかもしれない。放逐された令嬢にとっては、美人であることは必ずしも利点にはならないのだ。

 最後の慈悲か、しばらく食べていける程度の金銭は持たされたけれども、それだって一生暮らせるほどのものではない。個人で所有していた宝飾品なども持ち出すことは禁じられてしまったから。

 考えてみれば、王城でしていた政務も、王太子の婚約者だからと特に給金は貰っていなかったのだ。おそらく婚約者予算が王太子についていたのだろうが……それが私に回ってくることは、なかったから。


 皆で下手くそに笑い合って、離れがたくなる前に私はぺこりと頭を下げた。

 これまでの立場では決して許されなかった動作である。


「今まで、ありがとう。──皆、元気でね」


 膨大な魔力は、罪人用の腕輪で封印されてしまったからもう最低限しか使えない。

 私は用済みになったのだ。魔力もなくし、立場も奪われて。それでも、負けない。絶対に折れてなんかやらない。これからは他国で平民として、生きていく。



「お願いします! こちら、おひとつ──あ、こんにちは! どうぞ、サービスです! お願いします! どうぞ、ありがとうございます!」


 私は今、忙しなく人々が行き交う街角でひたすらティッシュを配っている。

 ティッシュの裏には広告が入っており、これを無料で配ることで店の宣伝を行うのだそうだ。確かにただのチラシを配るよりは受け取って貰える機会が多いし、取り出すたびに目に入る広告は効果が高い。

 このような手法は母国では見たことがなかったけれど、この国においてはごく一般的なものなのだ。ティッシュの質ひとつ取っても段違いに上質で、カラーの広告は見惚れるほど鮮やかな印刷だ。こんな小さなひとつひとつの事で、私はこれまでの自分の世界の狭さを実感してしまう。

 段ボールにびっしりと詰まったティッシュは一日に配れて1000個程度。そうして得られる給金で、なんとか安宿と簡素な食事が買えるくらいだ。

 生活に必要な物は、最初に身に付けていた衣服などを売って手に入れた金で揃えられた。なんとか見つけたこの仕事も、初めは一日中外で歩き回ることが出来ず、また効率的にティッシュを受け取ってもらう技術もなく、邪魔な物を見るように避けられるのが辛かった。ダンスで鍛えた体力には自信があったというのに、使う筋力は別のものらしい。貴族達の嫌味な言い回しや大臣達との舌戦にも慣れていたつもりだったが、それでも私は『王太子の婚約者』であったのだ。簡素な服を纏い、ひたすらティッシュを差し出す私は、街行く人々からすれば路傍の石と同じこと。こちらを見もせずに手を払いのけられた時、初めて私は立場が変わったことを実感したのだった。


 オープンカフェの店頭で、鮮やかなパラソルの下お茶と甘味を楽しむ若い女性達の姿が見える。

 流行の形のワンピース、頬を彩る可愛らしいチークのピンク色、香り高い紅茶にみずみずしいフルーツの乗ったタルト。

 響く笑い声は華やかで、胸の奥がツキリと痛む。私もかつては、あちら側にいたのだ。──人形のように美しい微笑みで真意を隠し、会話の裏に様々な意図を隠して。派閥、利害、戦略。仲が良いと思っていた彼女達とは、私が婚約破棄された時から連絡が途切れた。考えてみれば、私が『あちら側』にいたことはなかったのかもしれない。無くしたのではない。最初から持っていなかったのだ。

 俯いて少しだけ目を瞑り、そしてまたティッシュを数個、手に持った。

 最近はだいぶ体力もつき、配り方のコツも掴んできたのだ。少しずつ給料を増やして、貯金も作りたい。


「こんにちは! お願いします、どうぞ──ありがとうございます! お願いします!」

「ティッシュくれるぅ?」


 後ろからかけられた声に、笑顔を作りながら振り返る。

 残された最低限の魔力で整えた、私のトレードマークである縦ロールヘアがふわりと揺れた。


「──っ、ありがとうございます!」


 差し出した手から、優しくティッシュが引き抜かれる。

 目の前に立つのは、白に近い金髪の毛先を遊ばせ、キリッとした形のいい眉にくりっとした茶色の目、鼻筋は通り、唇は薄いが口は全体的なバランスから見て少し大きい、犬歯がチャーミングな男であった。

 真っ白いシャツに細身の黒いパンツを合わせ、頭部は小さく手足は長い。バーテルミー殿下もスタイルが良く見目がいいと令嬢達に大層人気であったけれど、それにも引けを取らない──どころかその上をいく美青年だ。


 通常ティッシュを配る際、私に声をかけるものなどほとんどいない。あってもせいぜい「どうも〜」くらいのものだ。私も人の進行を邪魔しないことを意識しているので(この加減が分からずに、最初の頃は邪魔だと罵倒されたこともあった)、受け渡しの際に立ち止まる人も当然いない。

 だというのに、私に声をかけてきたこの青年は、受け取ったティッシュをごそごそといじりながらも私の前に立ち続けている。

 たまに「2個ちょうだい」などと単純にティッシュを欲しがる人がいるから、その類だろうか。次に行っていいのかどうか分からずに、とりあえず差し出したままだった手をそっと引く。


「ヨシっ、はい、チーン!」


 袋を開けてティッシュを一枚取り出した青年はおもむろにそれを私の顔面に当てると、にこにこと笑いながらそう言った。はい、チーン、と。チーン……と。

 厳しい妃教育で培った、感情を表に出さない訓練がぼろぼろと剥がれ落ちていく音がした。


「あるぇ? オネーサン、気付いてない? 涙出てるよォ? あと鼻水も。うひゃひゃ、だーいじょうぶ! 俺美人さんの鼻水なら飲める派だから!!」

 

 ちょっと何を言われているのか分からない。

 けれど優しく目を細めるその青年の笑みは馬鹿にするでもなく嘲笑うでもなく、顔に添えられたままのティッシュはふわりと柔らかくて。

 視界がゆらりと歪んだかと思えば、私の瞳からははらはらと涙がこぼれ落ちていた。


「お、おおーっ、コレ俺が悪い感じぃ? 俺が余計に泣かしちゃったヤツぅ? よ、よしよーし良い子いい子。抱きしめてもいいかなぁ? セクハラになる……? 後から訴え……いやでもここでこのままアレしてても……いやうーん、まぁなんとかなるかぁ?」


 鼻に当てられていたティッシュで、そのまま目の下をポンポンと拭かれている。困った様子ながらも、さりげなく道の端に寄って人の視線を遮ってくれているのが分かった。

 人前でこんな風に涙を流したのは、いつぶりだろうか。追放された時も、私は泣かなかったから。毅然として、背筋を伸ばして。だって私は、何も悪いことをしていない。ずっと私の人生を捧げてきた。沢山努力してきたし、我慢してきた。

 初めて、なのかもしれない。物心ついた時にはもう、私は「王太子の婚約者」であることを求められていたから。


 だけど、もう。もう、私は、ただのアルベルティーヌなのだ。誰も知らないこの国で。敬われる事もないが、蔑まれる謂れもない。


「はい、チーン」


 そう言われて、今度は素直に鼻をかんだ。男の手つきは妙に手慣れており、さっと私の鼻を拭き取ると手早く綺麗に整えた。

 私は両親と共に暮らしたことはないし、王宮で私に付いていたのは乳母や侍女たちだ。彼女らは私に許可なく触れる事はできない。だから、知らなかった。人の手が、こんなに暖かいということを。


「あ、てかこのティッシュ、ウチの店のやつじゃ〜ん! めっちゃ偶然ウケるぅ! いやでも美容室の広告配るのが縦ロールちゃんてどうなの? 逆にインパクト? いやでもやっぱなんかイメージ違くない?」


 封の開いたティッシュをくるくるといじり回しながら青年が喋る。よく動く口元からちらちらと覗く犬歯が白くて眩しい。

 

「んー、よしっ、んじゃオネーサン、ちょっとウチの店おいでよ! どうせこのままじゃ今日仕事にならないっしょ? 目も腫れちゃったから綺麗にしてこっ、ねっ!」


 この仕事は天候によって左右されやすい為、毎日同じ時間働いているというわけではない。昨日は天気が良くて人通りも多かったから、いつもより多めに道に立っていつもより多めにティッシュを配っている。今日はこれから天気が崩れそうだし、もとよりそろそろ終わりにするつもりだったのだ。

 今し方会ったばかりの名も知らない異性に着いて行くなど、普通に考えて危険だし、おかしいことだと分かってはいる。けれど、不思議なほどに大丈夫だという自信があった。たとえ大丈夫じゃなかったとしても、後悔しない自信もあった。



 座り心地の良い椅子に案内され、首に清潔なタオルと大きなケープを被せられる。目の前の大きく歪みのない鏡は、以前アルベルティーヌが王宮の自室で使っていたドレッサーを思い出させた。

 平民用の質素なワンピースに、少し日に焼けた肌。髪だけは、手に入る範囲で精一杯の手入れを施し、残された魔力でもってぐりぐりと縦に巻いてある。アルベルティーヌは常に目元をハッキリさせた強めのメイクが気に入っていたけれど、それは大人の男に混ざって政に携わる際、少しでも舐められにくくする為の武装であった。

 実際の彼女は年頃の娘らしく、あどけなさも残るような清楚な顔の作りである。

 化粧道具は贅沢品だ。今は軽く粉をはたくくらいで、それでも十分に見られる美しい顔貌だ。しかしこうしてみると、若干顔と髪型がマッチしていないようにも見える。あの武装メイクだからこそ、映える縦ロールヘアだったのだ。


「椅子倒しまぁす」


 男はテキパキと準備を整え座り心地の良い椅子をフラットに近い状態まで倒していった。顔には薄く軽い布がかけられ、視界は遮られている。男の姿は見えないが、楽しそうな鼻歌が聞こえる。


「流していきまぁす」


 温かな湯がかけられ、指先で頭皮をマッサージされる。安宿に風呂はないから、髪を洗うのはたらいの水で行っている。仕事に出ない日には髪を巻かないので、その余力で浄化魔法をかけているから清潔だ。

 それでも、他人に世話をされながらこうして髪を洗われるのはたいそう気持ちがよく、薄布の中で軽く閉じた瞳の裏には良くしてくれた侍女の姿が浮かんだ。


「オネーサン、縦ロールに思い入れある感じぃ?」


 ふいに問われた言葉に、ふと意識が引き戻される。本当は、分かっていた。髪に使う魔力があったら、もっと有効に活用すべきだということは。

 変わらずご機嫌な鼻歌を口ずさみながら髪を洗う男はさして重要なことを聞いたようでもなく、薄布越しに淡い光を感じながら、私は小さく息を吐いた。


「──唯一、元婚約者に褒められた事なのです。何もかも出来て当たり前と言われる中で、この髪型だけは……上手だね、と。綺麗だねと。だから……」

「あ〜ね! これ案外加減が難しいんだよねぇ! 確かに上手いわ! だいぶん練習したんじゃない?」

「──ええ、まだ攻撃魔法は暴走すると危ないと禁止されていた幼い頃は、制御の訓練がてらひたすらこれを反復していたので……」

「はぁ〜偉いなぁ〜! 暴走すると危ないってことは全然ちっさい頃って事? そんな頃から制御って、えっらぁ! 努力したんだねぇ〜そりゃ続けたくもなるかぁ〜俺なんて専門出るまでフラッフラしてたのになぁ……」


 ぶつぶつと呟きながら、シャンプーを終えた青年は椅子を起こして私の髪の毛を優しく拭っていく。手は大きく、指が長い。

 その様子を半ばぼんやりと見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「──私はなんでもやって当然、引き受けて当然、出来て当然で、出来ない事こそ異常だったのです。私が私として存在し続ける為には……やるしか、なかった。出来なければ叱責され、詰られます。けれど出来ても、それは当たり前の事なので……偉いなどと、言われた事は……ありませんでした」

「うーわ、うっぜー。お前ら生まれた時から完璧人間だったのかよって言ってやりてぇ〜! 特に俺とか褒められて伸びるタイプだし! 怒られたら即やる気スイッチオフだし! 即寝する気しかしねぇ〜!」


 プンプンと怒りながらも手早く準備を整えて、鏡の中の青年は私の瞳をじっと見た。


「──オネーサン、元々貴族のご令嬢でしょ? この髪型って平民には手入れしきれないからやらないもんね。何があったか分かんないけど、色々あってここにいるんでしょ? んでも、自分の足で仕事してお金稼いで、生活してる。ご令嬢にはしんどかっただろうにさぁ、それでもあそこでティッシュ配ってる時のオネーサン、姿勢めちゃ綺麗だったし、笑顔ちょー可愛かった。髪の毛はめちゃ丁寧に巻いてあるし。服もシンプルだけどちゃんと清潔。ティッシュ配り、俺も昔やってたけどさぁ、あれ結構大変でしょ。俺は男だから肉体労働もやってたけどさ、それでもメシ買うのシンドイ日もあったからね。そんなほっそい身体でさ、ちっさい手でさぁ、なのにオネーサンってめちゃデカいんだよ。格好良いと思うよ。偉いよ、ホント」


 止まっていたはずの涙がまた一粒ころりと落ちて、つるつるとしたケープの上を滑っていった。


「縦ロールは、オネーサンの意地だよね。矜持っつーの? 続けたいなら、それでもいーし。だけどね、俺思うんだけど、今のオネーサンなら違う髪型も似合うと思う。顔かわいーからね、地のストレート活かして切りっぱなしにしても今っぽいし、思い切ってボブとかでも絶対似合うよ。俺が言いたいのはね、オネーサンがこれまで頑張って身に付けてきたことは誰にも取り上げることなんて出来ないし、髪型変えてもオネーサンはオネーサンだよってこと。分かる? 伝わる? え、てか俺めっちゃ語ってねぇ? なんか急に恥ずくねぇ? えっ、ちょ、タンマ」


 くるりと背を向けた青年は、やべーやべーと言いながら頭をぼりぼりと掻いている。

 洗い立てでストンと下ろされたままの自分の髪の毛が、肩からこぼれてさらりと落ちた。


「──切りますわ」

「よしっ、いつもの俺モードオン! やるぜフゥ〜!」

「切りますわ。私に似合うように、していただける?」

「──えっ! お、決まった感じ? 良いねぇ〜っ! オネーサンの目、益々良いよ! 俺に任せて〜絶対今よりもっと可愛くするからねェ!」



 シャキ、シャキ、シャキ。小気味良く響く音の中に、男の鼻歌が混じる。

 切り落とす線が見えているかのように迷いなく、楽しそうにくるくると動き回る様子はダンスを踊っているようにも見える。

 尤も私はこんなに楽しそうに踊った事はなかったけれど。もしかしたら、今ならもっとダンスも楽しめるかもしれないな、と思う。ドレスもない、ヒールの靴もない、装飾品のひとつもない。舞踏会に参加する事がなくなってから、踊ってみたいと思うなんて、皮肉なようで愉快でもある。


「よーし、おっけ! どう? めちゃ良い感じじゃない?」

「──これが、私?」


 きついメイクにしっかり巻いた髪、はっきりした色のドレスに毅然とした立ち居振る舞い。あの国での私は、侮られないように気を張っていたせいもあって少々年上に見られる事が多かった。

 けれど今鏡に映る少女は、胸あたりでざっくりと切り落としたストレートヘアに短めの前髪が馴染み、年相応に溌剌とした雰囲気を見せている。


「あーやっぱ俺天才だわ。オネーサンの格好良いとこと可愛いとこが完璧に両立してる。はい、右見て──前見て──はい、左。後ろはね、こんな感じ。どう? どう? めちゃ良い感じじゃないっ?」


 指差す方へ顔を向け、まじまじと自分の姿を目に焼き付ける。じわじわと頬が緩み、口の端が上がる。


 私は、この国で生まれ変わったのだ。バーテルミー殿下の為の人生を終えて、これからは、自分の為に生きて──


「良いっスよ!!」

「……良い、かしら?」

「良いっスよ!!!」


 親指を立てて、鏡の中の青年が笑う。相変わらず、白い犬歯が眩しい。



「んじゃ、今日のカット動画、俺のチャンネルに載せさせてもらっても良いかな〜? 絶対バズるわぁ、だってもうめっっちゃ似合ってるもんなぁ! 俺、天才! 才能の塊! またイメチェンしたくなったら来てくれれば、いつでもやるからねっ!!」

「ええ、ありがとう」

「いえいえ〜こちらこそ、ありがとうございましたァ! またぜひご指名ヨロシクでぃす!」


 明日からまた、私はティッシュを配るだろう。仕事の時は、ポニーテールに括ってみても良いかもしれない。宝石の付いた髪飾りはもうないけれど、露天で見かけた布のシュシュが素敵で気になっていたのだ。きっと、可愛い。



「いや〜やっぱ再生回数エグいわぁ〜、俺の才能に全世界が嫉妬してるぜぇ」


 このカット動画はかなりの再生回数を叩き出し、バズりにバズった。

 モデルの少女は元々美しい顔貌をしていたけれど、身なりと豪奢な巻き髪がミスマッチで違和感が拭えなかった。それが変身カットによって明るく爽やかなストレートヘアになったのだ。短めの前髪が活発そうでまた可愛らしい。



 動画を見たこの国の王子が彼女の出自に気付き、慌てて命じて王宮に招いたとか。

 彼は魔力に障害が出る病気を患い、離宮で静養していた。以前母国の外交でこの王子と会った事のあった彼女は、「どうせ封印されて使えないのだし、貴方の役に立つならあげるわ!」と笑いながら、自らの魔力を提供したのだという。抜き取られるのではなく封印にしてくれた母国に感謝ね、と。

 絶賛回復中の王子の枕元で、朗らかに笑う彼女の周辺が、確実に囲い込まれていっているとか、いないとか。



「俺、マジでナイスゥ〜」


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― 新着の感想 ―
[一言] 追放した先の王子どうなったんでしょうね。後、名前が出なかった美容師のお兄さんいい仕事しましたね
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