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ジョーズのバスボム

 ジョーズのバスボムを買った。ころころした水色の船の形をしていて、溶けると中からジョーズが飛び出してくるらしい。ジョーズの種類は四種類あり、通常のやつと、爆弾を咥えた傷だらけのやつ、電気ケーブルを咥えた傷だらけのやつ、それからシークレットのやつ。入浴の際に、早速湯船に入れてみた。ぽこぽこ音を立てながら溶けていく。水色が薄まりながら広がっていく。やがて、あたしの浸かる浴槽はアミティ・アイランドのビーチになった。エメラルドグリーンってたぶんこういうことだし、この水を宝石にしたらアクアマリンなんだと思う。

 かわいい色。あのときのラムネみたいな色。エメラルドグリーンの海になんとなく憧れてしまうのは、あたしたちがどこかに置き忘れてしまった色をしているからだと思う。どう頑張ったって、都会の中では見つけられない色なのだ。そう、どう頑張ったって。

 そんな宝石の色が、赤く染まる。


 わざわざアミティ・アイランドの海を再現してから真っ赤にするのだから、なかなかこだわってるんだなと思う。うん、映画好きに変な人しかいないってのは本当だと思う。

 海の色をぽこぽこ吐き出していたバスボムは溶けてきて、その中に赤が混じり始めた。結構濃い色だ。血の色。何も通さない、黒の入った赤。どちらかというと見慣れている。でも、見慣れたくない色だと思う。綺麗かと言われると微妙、やっぱり、本能的な恐怖と危機感を覚える色なので。綺麗というのもわかる気がするけど、そう思うには、少し勇気と気力がいる綺麗さじゃないのかな。

 赤はどんどん広がっていって、あたしはジョーズをはっきり思い浮かべた。あー人が食べられてるなー、もう助からないなー、という感覚。海の中にじわじわ広がっていく赤こそが、ジョーズの象徴なのだ。姿は見えないけれど確かにいる、ジョーズの存在証明なのだ。ジョーズといえばこれなのだ。いいね、あたしも、あたしといえばこれというのが欲しかった。未だに探してる。でも、永遠に見つからないでほしい。あたしを何かに規定しないでほしい。でも、誰かに、何かに保証してほしい。安心したい。結局そういうもんなんだと思う。ジョーズだってきっと、自分の縄張りでゆっくり人を食べたいと思う。


 浴槽は完全に真っ赤に、血の海になってしまった。人生最大の生理みたいでウケる。異様な色だけど、なんだか安心もする。お湯だからかな。お風呂に、人を不安にする要素なんて、たぶんひとつもない。毛布にくるまれてるみたいだ。お湯と毛布は似ている。どちらも温かいけれど、出ることを諦めてしまったら、息ができなくて死んでしまう。ジョーズに食べられて死んでしまう。

 かわいそうなアミティ・ビレッジ。でも逞しいんだ。きっと、うきうきしながらバスボムを作ってる。


 あたしがジョーズのバスボムを買ったのは、ジョーズが好きだからなのと、ジョーズの海に浮かんでみたかったからだと思う。たぶん、心のどこかで通じ合える気がしてたんだ。鋭い叫び声をあげて食べられる人の方がどこか恐ろしくて、小さな目に大きな口のあいつなら、どこか分かり合えるんじゃないかって。だって、悪意みたいな野望みたいな、気持ちの悪いものはジョーズになくて、そこにあるのは純粋な捕食欲だけだから。ぜんぶ食べちゃえばいいと思う。でも、あたしを食べても美味しくないとも思う。美味しくないといいな。ダイエットも食事制限も肯定してくれそうだから。でもジョーズの舌に味覚なんてないので、そういうの関係ない。

 かわいそうなアミティ・ビレッジ。あたしたちだってかわいそう。だって、近くの海岸にサメは来てくれない。


 あたしはジョーズの姿を探した。バスボムを投げた辺りをかき回して、それから。ぽこんと音を立てて、それはようやく水面に顔を出した。

 ジョーズは死んでいた。土気色の顔が血の海に浮かんでいた。本当の死体なんて見たことないけれど、フィクションばかりが目に映るけれど、ジョーズはいつも決まって死んでしまうのだから、これは死んでいるのだろうと思った。シークレットのやつだ。元気でも傷だらけでもない、小さなジョーズの頭が飛び出してきた。それは何も見ていなかった。目の色まで土気色だった。ジョーズは死んでしまったんだと思った。じゃあ、誰があたしを食べてくれるんだろう。あたしは裸のまま、ぬるくなっていくお湯の中に取り残されるしかないのだ。


 顎まで浸かりながら、あたしはなんとなく考えた。唇に赤い波が押し寄せる。それもすぐに収まって、湯船にはあたしと、ジョーズの死体がぽつんと浮かんでいるだけ。

 いつか夏が来たら、海に行って、ジョーズのバスボムをありったけ投げ込んでやろう。全部のビーチをアミティ・アイランドのそれにして。血の海にしてしまおう。うん、それがいい。映画ですら血の海にできないんだから、たぶん、現実でもそれぐらいやらなきゃ、あたしはずっと報われない。

 そんなことを考えていたら、浴室の外からママの声がした。ちーちゃん、そろそろあがんなさいよ。あたしは聞こえないフリをした。甘えたい気分だったから、慰めてほしい気分だったから、ほっといてほしい気分だったから。ぱたぱたと足音が近づいてくる。あたしの頭の中には、ジョーズのテーマ曲が流れている。

 血の海に浸かるあたしを見て、ママは悲鳴を上げるだろうけど、もう、そういうの関係ない。関係ないのだ。

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