月の呪い 01
カシュワーナ王国郊外に建つ大きな邸宅。城、とまではいかないが白を基調とした壁は月の光に照らされほの青く光る、その姿は城にも引けを取らない建築物としてちょっとした有名な建物だ。
小さな城、のようなその邸宅の奥の部屋ーーシンプルながら上品な調度品で整えられたその部屋のベランダに妙齢の、美しい女性が立っていた。
かすかな風は彼女の美しい黒の長髪を揺らし、月を見上げる貌は儚いながら淡褐色の瞳の奥には力強さをみせる魅力あふれる女性。
彼女のために作られた黒いシルクの夜着は白皙の肌を際立たせ妖艶さをも引き出していた。
ーーそこに、新たな気配が現れる。
「……メラミュレンア=メジュワーレ」
憎々しげに彼女の名を呼んだその影に、彼女は片眉を少し上げて目線を移した。
「あら、懐かしい名前」
飄々とした彼女の声に、対峙する影はギリリと奥歯を噛み締める。
だが、彼女の余裕綽々とした微笑を見て、無理やりその顔に笑みを貼り付けた。せめてもの抵抗のように。
「そんな顔をできるのも今のうちだと思え! オレがここに入ることができた時点でオレの力はお前を上回ったも同然……ああ、そうだ。お前はこれからオレに殺されるのだ!!」
「……」
「貴様もそのうち泣いてオレに命乞いをするだろうさ! なんなら今、その澄ました顔を歪めてオレに懇願すれば少しは考え直してやってもいい! さあ、どうするメラミュレンア=メジュワーレ!」
高く笑い声が響き、静寂が訪れた時、また微かな笑い声がその空間を満たした。
「貴様……なにを笑っている!」
鈴を転がしたような楽しそうな声は黒曜の女から発せられたものだ。
白魚のような手を口に当てて、肩を揺らすその姿は一枚の絵画を見ているように美しく、影は思わず見とれそうになる。
「貴方がわたしを殺すなんて…ふふ、そんなこと言われちゃ笑うしかないでしょう?…んふふ……」
「き、きさまッッ!!……んぐわっ!!」
刹那、影は何かとてつもない質量のものに押しつぶされるような力を持ってしてその姿を顕現させられた。
現れたのは魔法士のローブを着た男だ。老人のような白い髪に死人のように落ち窪んだ青白い顔、その顔の半分は引きつり嫌悪感を誘う。 恐ろしい形相は彼女の前では特に醜く映えていた。
「あら、あなた……」
「ああ、久しぶりだなメラミュレンア=メジュワーレ!!」
投げかけられた言葉に彼女は一拍おいて緩慢な動作で右手を顎に当て首をかしげる。
「……誰だったかしら?」
「なっ! 忘れたとは言わせないぞこの女狐が!! お前の方からこのオレに近づいてきたことを!!」
「うーん。 ごめんなさいね? あなたみたいな人は沢山いたからいちいち覚えていないの。 何か特徴があったならともかく、ふふっ、ねぇ?」
「お、まえ……!! 許さない!!絶対に!このオレを貶め、弄び、愚弄したこと!忘れたなら思い出させてやるさ! そしてオレに頭を下げることになるだろうさ!は!ははは!はははははは!」
痛快な笑い声とともに現れた男の胸元が怪しく光り、おぞましい何かの気配が濃くなる。そして、男がローブの下から何かを取り出し魔女に向けようとーーー
「がっ……!!?!?」
向けようとしたものの、その身は動きを止め男は苦しみの中喘ぐように手を伸ばしたまま固まった。
「なんだか変な気配だと思ったら、嫌なものを持っているのねぇ」
いつのまにか彼女は男の側、ベランダの淵に腰掛けその手には先程男が取り出そうとしたモノが握られていた。
「どうりで、魔法が効きにくかったのね。 私を殺すのに努力し過ぎよ。これ取って来れるなら一国くらい落とせそ……あ、思い出したわ、あなたのこと」
拘束魔法で一切の身動きができない男だが、唯一動く眼球を彼女に向けると彼女はいつかのように彼に向けて艶美な微笑みを見せた。
「エブロ、とか言ったかしらね。 全然姿が違うから分からなかったわ」
記憶の一端を思い出した彼女は男ーーエブロに向き合って話を続ける。
「でも、私のところに1人でくるなんてバカね。 これじゃあ死んでしまっても誰もあなたを見つけてくれなくなってしまうわよ。 可哀想だけど、ふふ、そうね、そういうバカなところが可愛かったのかしらね」
嘲笑し、愚弄する彼女に対してエブロは動くことができない。しかし彼の蒼白とした顔は赤みがさし、目は血走り悪魔の形相となっていた。
「さて、お話おしまい。 さようなら」
とびきりの笑顔で微笑んで彼女は手中にある精霊の心臓を消し、空いている手をエブロに向け、指を折った。そして、ベランダには男だったモノが静かに横たわる。ーーはずだった。
「え……?」
それは初めて見せた笑顔以外の顔だった。
潰したはずのエブロ。それが一瞬にして消え失せたのだ。
なにが起きたのか分からなかった。しかし、分からないというのは彼女にとって一番有り得ないことであり、忌避すべきことだ。なぜなら、彼女の魔力はこの国、否、大陸一ともうたわれる程強大で彼女自身強力な魔法使いなのだから。
その彼女が認知できないということは、彼女より強力な魔法使いであるか、それとも、
「精霊使い……いや、精霊魔法士…!?」
「ははは! その通りだ! さあ、遊びもここまでだ。 今度こそ貴様のその腹立たしい顔を恐怖に歪めオレの前にひれ伏させてやろう!!」
精霊魔法士、禁忌と呼ばれるいるはずのない術士。存在してはいけない諸刃の存在。
高らかに叫んだゼブロは彼女から少し離れた上空に浮き、その身はほのかな光に包まれている。
「さいっあく、精霊使いなんてアイツだけで十分すぎるってのに……」
夜の帳を背後に男の周りを儀式に使われるような触媒が浮遊する。もちろん、さっきまで彼女の手元にあった心臓も。
さらに、浮かぶものの1つを見て彼女は眉間にしわを寄せ舌打ちをした。
「終わりだ! 卑しい魔女め!!!」
一際大きな声で叫ぶと共に、エブロの周りを浮遊するモノがぼんやりと禍々しい光を纏い彼の頭上へ収束していく。
それをにらみながら彼女は魔法詠唱を始める。
「ふ、馬鹿な女め。 この呪いを避けられる魔法などあるわけがない!」
そう、エブロが行使しようとしているのは呪い。そして、呪いから身を守る術は今のところ見つかっておらずどんな防壁を展開しようとも避けることは不可能なのだ。
しかし、魔女の唇は動くのを止めない。
「悪あがきもそこまでだな。 貴様はオレに泣いて縋り付くだろうさ! 」
その言葉と同時に頭上の物たちがが完全な闇に包まれ1つに収束し、夜空の闇を吸い込むように大きくなっていく。見上げる彼女から空が見えなくなるほど大きく。
エブロは一層唇を歪め、魔女を見下ろし嘲笑を浮かべる。しかし、相対する彼女もまた蔑むような笑みを浮かべて見返した。
「な……!?」
刹那、彼女を中心として周囲一帯の温度が急激に低下し、エブロに向けて数多の氷柱が突っ込んでいった。
エブロを逃さないかのように氷柱は四方八方から鋭い刃を突き刺した。けれど、
「はっはははは! こんなものでオレを殺せると思ったか魔女め!貴様も落ちたものだなぁ!」
氷柱はエブロの張った防壁に軽々といなされ砕け散った氷の粒が舞い、辺りは白く霞がかかった。
視界が悪くなった事に彼が眉をひそめた瞬間、
「ーーあら、それは期待させてしまってごめんなさいね?」
「き、さま…!? ガッッッ!!」
背後からは彼女の声、そしてエブロの胸を深々と剣が貫いた。
美しく研ぎ澄まされ薄暗い中でもほの青く光る剣にはエブロの血液が滴り、束の間の静寂が訪れる。
勝敗は決したかに思えたが、口を開いたのは彼女ではなく男の方だった。
「く、くはははは! ゴホッ、ッ、は、はははは!」
白い靄が薄まり、視界が開ける。そして現れたのは剣に貫かれたまま上空で笑い続ける男と、剣の柄を握ったまま固まり蒼白とした顔色の彼女。
呪詛の塊によって見えなかった空には星が瞬き、それは呪詛が消え、発動されたたことを意味する。
「やってやったぞ! 卑しい売女に! 忌々しいメラミュレンア=メジュワーレにオレは!! は! ははははははははは!!」
「……ッ。 ふ」
「……なにをまだ笑うことがある? 負け惜しみか」
「いいえ? ただ、可哀想で」
「……なんだと?」
「精霊魔法士という禁忌を犯しても、貴方は私を殺しきれない。……本当に、可哀想」
「! き、さま…呪いに抵抗して……! …クソ!! 貴様、これを待っていたのか!!」
魔女の持っていた剣は消え、代わりに新たに、一際強い気配が現れる。
「ええ。 それと、私の姓はメジュワーレ、ではなくヴォーグ、よ……ッッ」
最後に、それを言い残しメラミュレンアは地上に落ちていった。 そして、地上では彼女を受け止め、彼女の使った剣の本当の持ち主である男がエブロに冷徹な眼差しを向ける。
新月の夜、始まりの夜の物語。