90.私の扉が開いた時
「内倉さんだよね? ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
初めての彼氏が出来た数日後、私は見知らぬ男子生徒に声をかけられた。
眼鏡をかけた、正直に言ってしまえば少し地味な感じの男子で、私は「もしかしたら告白だったりして?」なんて自惚れたことを考えてしまった。
痛々しい思い上がりだと自分でも反省しているけど、その時は憧れのイケメンである鳶田くんといきなり付き合えたことで、「私って意外と捨てたもんじゃないのかな?」なんて思っていたのだ。多少調子に乗るのも無理はない……と、大目に見てほしい。
「えっと……誰かな? 私と話したことあったっけ?」
念のために聞いてみたけど、本心では初対面だと確信していた。
そこまで特徴的な相手ではないとはいえ、どことなく目付きの鋭さは印象深いので、一度ちゃんと話した相手だとしたら忘れていないと思う。
そんな考えを証明するように、彼は胡散臭い笑顔を浮かべながら首を振った。
「いいや、初対面だね。僕は同じ二年の真壁って言うんだ。よろしくね」
「……よろしく」
今にして思えば「胡散臭い」なんていうのは被害妄想なんだろうけど、他人には言っていないとはいえ彼氏が出来たばかりの私に声をかけてくるような相手なので、かなり警戒心を持って接していた。
それでも次に彼が発した言葉で、かなり驚いてしまったのも覚えている。
「話っていうのは、君の彼氏のことなんだよ」
「な……わ、私に彼氏なんて……」
「いいよ、分かってるから。C組の鳶田だろ? そして君は、彼から付き合っていることを隠してほしいって頼まれてる」
私は目の前の男子――真壁くんに、恐怖心を抱いた。
彼が言った通り、鳶田くんと付き合い始めたことは誰にも教えていないからだ。
仲の良い友達どころか、家族にまで話していない。そうなると知っているのは私か鳶田くんの二人だけで……じゃあ彼は、どこからその情報を得たんだろうか? 私には全く理解が出来なかった。
「どうしてそれを……それに、だとしたら何だって言うの?」
理解が出来ないのは私たちが付き合っているという情報を得た手段だけでなく、こうして私に話しかけてきた目的も同様だ。
確かに鳶田くんには「周りの友達に囃し立てられそうだから、しばらくは隠してくれ」なんて言われていたけど、だとしてもバレたところで何かのペナルティーがあるわけではない。高校生の男女が健全な付き合いをしていたって、脅しや交渉の材料にはならないはずだ。
自分の置かれた状況が理解できないまま、言い様のない不安に晒されていた私に、真壁くんは決定的な一言を浴びせてきた。
「君の彼氏、浮気してるよ」
その一言で、私の順風満帆な学校生活は、呆気なく終わりを迎えた。
真壁くんから真実を教えられた翌日の放課後、私は別のクラスを尋ねた。
緊張しながら教室内を見渡すと、目当てだった女子の姿がすぐに見つかる。
髪は金に染めているので派手な感じだし、凄く気の強そうな顔立ちだけど、それでも間違いなく美人だ。
こんな子が傍にいたのに、どうして……と、自分の彼氏だと昨日まで信じていた鳶田くんの考えが、全く理解できなくなってしまった。
「あのっ……二ノ宮さん、だよね?」
私は彼女――二ノ宮さんの席に近付いて、緊張しながら声をかけた。
二ノ宮さんはそんな私を一瞥すると、不機嫌そうな表情で口を開く。
「そうだけど……アンタが、例の?」
「は、はい……そうです」
正直、物凄く怖かった。
私はどちらかと言えば地味な方で、二ノ宮さんみたいな派手なタイプの子と絡む機会はあまりない。その上、彼女は鋭い印象の美人で、さらに理由は明白だけど不機嫌さが溢れていて、どうにも近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
それでも私は、怖いからと言って逃げるわけにはいかない。
意図していなかったとはいえ、私がしてしまった事を彼女に謝らないと、自分の気が収まらない。
だけど、そんな切羽詰まった私よりも先に、二ノ宮さんの方が呟いた。
「ここでする話じゃないでしょ。場所変えるわよ」
そう言って二ノ宮さんは、自分の鞄を掴んで立ち上がった。
そのまま周囲のクラスメイトに一声かけてから教室を出た彼女を、私は慌てて追いかけた。
教室を出た私と二ノ宮さんは、とある空き教室まで足を運んだ。
今は使われていない文化部の部室の一つで、一部の生徒の間では自由に使える穴場として知られている。
放課後になると周囲の部が活動しているので、多人数で遊ぶのには適していないけど、一人か二人で静かに使う分には問題ない。
「で、アンタ……ああ、そういえば名前も聞いてなかったわね……」
「あ……内倉です。内倉 響」
「内倉さんね、了解。知ってると思うけど、あたしは二ノ宮 花蓮よ。よろしく……出来るかどうかは、この後の話次第ね」
二ノ宮さんのセリフに、私はビクリと肩を震わせた。
真壁くんから大体の事情は聞いていたけど、やはり彼に相談した張本人だけあって、二ノ宮さんも全て知っているらしい。
だとすれば、私がするべきことは一つだけだ。
ここまで移動してくる間に、言うべきことは頭の中でまとめてある。
私は二ノ宮さんに対する恐怖を振り切るように、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい! 私が告白なんてしたせいで、二ノ宮さんの彼氏に二股を持ちかけるみたいになっちゃって……!」
彼に恋人がいるなんて、私は知らなかった。
知っていたら告白なんてしなかったし、そもそも向こうが「彼女がいるから」と断ってくれたら済んだ話だとは思う。
「私、あの人に彼女がいるなんて知らなくて……」
だけど、そんなのは二ノ宮さんには関係ない。私が告白さえしなければ、きっと二人は今でも恋人同士でいられたはずだ。
「だから許してなんて、言わない! 私が知らなかったかどうかなんて、信じてくれなくてもいい! 私が何もしなければ、こんなことにはならなかったんだから……」
何て惨めなんだろう。
ただ好きな人に気持ちを伝えただけなのに、浮気相手みたいになってしまって。
本当に悔しい。悔しくて、涙が出てくるけど、それでも二ノ宮さんにとっては、私も共犯者みたいなものだと思う。だから、謝らないと。
「だから――本当にごめんなさい!」
私は頭を下げたまま、二ノ宮さんの言葉を待った。
怒鳴られるかもしれない。泣いて罵られるかもしれない。もしかしたら、ビンタくらいはされても不思議じゃない。
そう思いながら沙汰を待つ私にかけられたのは、予想よりも遥かに穏やかな声だった。
「……何言ってんのよ」
その声に驚いて少しだけ体を起こすと、いつの間にか二ノ宮さんが私のすぐ傍まで来ていた。
二ノ宮さんが私の両肩をそっと掴む。思わずビクリとしてしまったけど、彼女はほんの少し力を加えて私の体を起こしただけだった。
私より二ノ宮さんの方が少し身長が高いので、まるで男の子と見つめ合っているかのような錯覚をしてしまう。しかも二ノ宮さんは、そのまま私の両頬を手で押さえて、グイっと顔を寄せてきた。
まるでキスシーンのような体勢だ。突然の状況についていけない私は、さらに二ノ宮さんの端正な顔が目と鼻の先にあることで、混乱というかわけの分からない状態に陥っていた。
「な……に、にのっ……」
「響、聞きなさい」
「はえぇ……?」
いきなり下の名前で呼ばれて、私は間の抜けた声を上げてしまった。
だって仕方ない。こんなの、まるで漫画やドラマの王子様だ。
二ノ宮さんは中性的というわけではないけど、今は凄く真剣な表情をしているから、やたらと引き締まって見える。
私の胸の高鳴りなど露知らず、二ノ宮さんは私に語りかける。
「アンタは、アイツに彼氏がいるなんて知らなかった。そうでしょ?」
「そ、そうだけど……信じてくれるの?」
「もちろん信じるわよ。わざわざ、あたしに謝りに来るようなお人好しが、知ってて二股持ちかけたりなんてしないでしょ」
そう言った二ノ宮さんの目には、確かに少しの疑いも見られない。
その目に映っているのは、真っ赤になって慌てている私の顔だけだ。
「だからね、アンタは何も悪くないの。もちろん、あたしも悪くない。悪いのは、あのクソ野郎だけよ」
「そ、そうなの? でも、私が……」
「何よ。アンタ、あたしが信じられないの? あたしはアンタのこと信じてるのに」
「ひゃい……」
どこまでも真っ直ぐ過ぎる言葉に、私はただ頷くしかなかった。
信じるも何も私と二ノ宮さんは初対面なんだけど、そんなツッコミをするのが無粋に思えるほど、彼女の目は綺麗だった。
自分が裏切られた憤りとか惨めさよりも、二ノ宮さんに見惚れてしまう気持ちの方が遥かに上回っている。
「よろしい。まあ、それでも悪いと思うなら、アンタには友達になってもらうわよ」
「と、友達……?」
「そう、友達。同じバカに騙された者同士、仲良くやりましょ?」
そう言った後、二ノ宮さんは私の頬から手を放して、少しだけ距離を取った。
彼女が離れてしまうことに名残惜しさを感じてしまった自分の感情に少しだけ戸惑いを覚えつつ、私は言われた言葉の意味を考える。
二ノ宮さんは私の謝罪を受け入れて、それどころか「友達になろう」と言ってくれている。きっと、それは私が気に病み過ぎないように、という意味だろう。二ノ宮さん自身だって、傷付いていないわけがないのに。
そんな風に言える二ノ宮さんが、とても格好よくて、綺麗に見えた。
「うん……よろしくお願いします、二ノ宮さん!」
気付けば私は、無意識に再び頭を下げていた。
だけど今度のは、惨めな謝罪のためなんかじゃない。
どこまでも優しくて真っ直ぐな二ノ宮さんと、本気で友達になりたいと思ったから、私は自分の意思に従って頭を下げたのだ。
「もう、違うでしょ」
「え? な、何が?」
しかし二ノ宮さんは、そんな私に向けて首を振った。
何か間違えてしまったのかと不安になったけど、二ノ宮さんは優しい笑顔を浮かべたまま、私に向けてその瑞々しい唇を動かした。
「あたしたちは対等な友達なの。だったら、どうしたらいいか……分かるでしょ、響?」
「あ……うんっ! よろしくね、花蓮ちゃん!」
二ノ宮さん――花蓮ちゃんが笑う。私もきっと笑っていると思う。
もしかしたら鳶田くんと付き合えた時よりも、よほど良い笑顔になっているかもしれない。あの時は嬉しいというより、いきなり付き合うことになって戸惑っている気持ちも強かったから。
というか、こんなに素敵な花蓮ちゃんが彼女だったのに裏切った鳶田くんが、私にはさっぱり理解できない。
鳶田くん……ううん、あんなの「アレ」で十分だよね。花蓮ちゃんを裏切るなんて、ちょっと私には許せそうにないや。
好きだったはずの相手への好意も、その人に裏切られた憤りや悲しみも、この時の私には少しも感じられなかった。
この時はまだ気付いていなかったけど、きっと私は――。
「花蓮ちゃんとの出会いは、こんな感じだったかな」
「ほえー……格好いいね、二ノ宮さん」
「そう! そうなの! 花蓮ちゃんは、すっごく格好いいの!」
私が花蓮ちゃんとの出会いを語り終わった後、小手毬さんが期待通りの反応を見せてくれたので、思わず身を乗り出して花蓮ちゃんの格好良さを説いてしまった。
真壁くんの方を見ると、苦笑いを浮かべている。きっと鳶田くん(心の中でも言い換えるのは面倒なので)の二股を知らされた私と花蓮ちゃんが、散々罵ってしまったのを思い出しているんだろう。
あの時は本当に申し訳なくて、「早く謝りに行かないとね」って花蓮ちゃんと話し合っていたくらいだ。
……花蓮ちゃんと私の関係について、真壁くんたちには話していない大切なことがある。
それは真壁くんに助けられた後、花蓮ちゃんが彼に二度目の恋をしたことだ。
花蓮ちゃんは良くも悪くも正直なタイプなので、真壁くんに対して感謝以上の感情を抱いていたことは、すぐに分かった。
その時、真壁くんなら大丈夫だろうと思う一方で、素直に花蓮ちゃんの恋を応援できない自分がいることに気付き……そして私は、自分が花蓮ちゃんに本気の恋をしてしまったのだと理解した。
鳶田くんがまた声をかけてきた時、本当なら先生に話せばすぐにでも解決できたんだけど、そうしなかったのは花蓮ちゃんの意向だった。
花蓮ちゃんはこの機会を利用して、真壁くんのいる恋愛相談部に再び関わろうとしていたのだ。結果は私たちの目の前で真壁くんが小手毬さんに告白するという、花蓮ちゃんにとっては酷なものになってしまったけど。
だからこそ私は、今でもこうして花蓮ちゃんの傍にいられる。
もし花蓮ちゃんが真壁くんと付き合っていたら、自分の気持ちに気付いてしまった私は、後悔や嫉妬に耐えられず距離を置いてしまったかもしれない。
そして今回、鳶田くんの件は私の早とちりだったけど、やっぱり私は花蓮ちゃんが好きなのだと再確認してしまった。
だから――。
「響! いる!?」
「だから私、花蓮ちゃんと本気で恋人になり……た……」
――え?
私が思いの丈を宣言したのと、部室の扉が開かれたのは、ほぼ同時だった。
聞き慣れた声が耳に入ったので振り向くと、そこには目を見開いた顔をした、私の大好きな人がいる。
「ひ、響? アンタ、何言って……」
なんで……なんで、ここに花蓮ちゃんが――。
次回、二ノ宮さん視点で締めます。