86.内倉 響と新たな扉②
泣いている内倉さんを立たせておくわけにもいかないので、ひとまずソファーに座るよう促した。
彼女の気持ちを落ち着かせるために、ちょうど影戌後輩のリクエストで小手毬さんが用意していたハーブティーを提供する。ちなみに鳶田後輩の分だけは、僕が淹れた梅昆布茶だ。粉末を溶かすだけなので、一人だけ違っても大した手間ではない。
「落ち着いた? 内倉さん」
優しい声で尋ねた小手毬さんに、内倉さんは小さく頷いて返した。
僕に対してはそうでもないとはいえ、内倉さんは少し男性不信気味なところがあるし、ここは最近母性が溢れ出ている小手毬さんに会話の主導権を任せた方がいいだろうと、僕はなるべく口を出さないことに決める。
「何かあって相談に来たなら、私たちで良ければ話を聞くけど……。あ、でも急かすわけじゃないから、ゆっくりでいいからね?」
「うん、ありがとう、小手毬さん……」
俯きがちな内倉さんに声をかけた後、小手毬さんは僕の顔をチラリと見てきた。
その視線に含まれた感情を予想すると、「こんな感じでいいんだよね?」といったところだろうか。急かすわけではないけど話は聞きますというアプローチは、落ち込んでいる内倉さんへの対応として申し分ないので、しっかりと頷き返しておく。
たっぷり数分ほどお茶を飲んだり適当な会話をしてリラックスした後、内倉さんはポツポツと泣いていた事情を語り始めた。
「実は……最近、花蓮ちゃんの付き合いが悪くて……」
「そうなんだ……何か忙しかったのかな?」
相変わらず会話のメインは小手毬さんに任せて、僕は横で聞いているだけだ。
それにしても内倉さんたちは凄く仲が良い――正直、ちょっと仲が良すぎる気もするというか、毎日のように一緒にいる印象があったので、二ノ宮さんの付き合いが悪くなったというのは意外に思える。
「少し前は、毎日一緒だったのに……」
……毎日のようではなく、本当に毎日だったらしい。
仲の良い友人なら別におかしい事ではないのに、内倉さんたちの事となると穿った見方をしてしまうのは、以前にあんなシーンを目撃したせいだろう。しかし小手毬さんと影戌後輩は、内倉さんたちの例のシーンを目撃していないので、当然ながら普通に仲違いをしているのではと考えているようだ。
「何か切っ掛けはなかったんですか? 喧嘩したとか……」
「そうだね。私は二ノ宮さんとは付き合いがないけど、何の理由もなく冷たくするような人じゃないと思う」
「切っ掛け……かどうかは、よく分からないんだけど……」
そう呟いた後、内倉さんはつらそうに顔を伏せた。
そして苦みを堪えるような表情で、声を絞り出す。
「昨日、花蓮ちゃんが『アレ』と話してるところを見て……!」
ギリリと歯を食いしばる表情からは、内倉さんの怒りや憎しみが垣間見える。
そんな彼女を見て、影戌後輩と小手毬さんは顔を見合わせていた。
「アレって……」
「アレだよね……」
「え、『アレ』? さっきも言ってたけど、『アレ』って何です?」
一方、「何が何だか」という反応をしているのは、鳶田後輩だ。
そういえば彼女は、内倉さんが言う「アレ」の意味を知らないんだったな。どう考えても、彼女が一番関係が深いはずなのに。
鳶田後輩は手が空いている僕に説明を求める目を向けているけど、よくよく考えると「自分の兄が人からアレ呼ばわりされている」っていう状況を説明するのって、ちょっとハードル高いな……。とはいえ、どうせ話しているうちにバレるんだから、説明しないわけにもいかないよな。
「えーっとだな、『アレ』っていうのは――」
「昨日の放課後、いつも通り花蓮ちゃんのところに行ったの」
「……あ」
観念して鳶田後輩に話をしようと思った僕を余所に、内倉さんが事情の説明を始めてしまった。二ノ宮さんの事でショックを受けているせいか、周囲の状況が目に入っていないんだろう。
いくら何でも内倉さんと被った状態で喋り続けるわけにはいかないので、申し訳ないと思いつつも鳶田後輩への説明は見送る事にした。どうせ内倉さんの話を聞いていれば、嫌でも「アレ」が誰だか分かるだろうしな……。
そんな僕の考えなど知らないまま、内倉さんは滔々と語り続ける。
「最近、花蓮ちゃんは放課後にあんまり付き合ってくれなくなったんだけど、それでも私は一緒にいたくて……。昨日も美味しいクレープのお店に誘おうと思って、花蓮ちゃんの教室まで行ったら、『ちょうど入れ違いに出て行った』ってクラスの人に言われて……」
友達の付き合いが悪くなっても、健気に声をかけて……いや、健気なんだろうか、内倉さんの場合は……。どうにも前に見た衝撃の光景がチラついて、内倉さんの抱えている感情が純粋な友情なのか、測りかねている部分がある。
「それで私、花蓮ちゃんを探して屋上まで行ったの。根拠があったわけじゃないんだけど、屋上にはちょっと色々思い出があって、嫌な予感がしたから……」
「嫌な予感……?」
小手毬さんたちは首を傾げているけど、おそらくこの場で僕だけは、内倉さんが抱えている「屋上にまつわる思い出」を知っている。
彼女にとって屋上とは、まさしく「アレ」に告白した場所だからだ。
僕と同じ人物を思い浮かべているであろう内倉さんは、再び歯を食いしばる表情を見せながら、言葉を吐き出した。
「そしたら……そしたら花蓮ちゃんが、アレと話してて……!」
……意外だな。内倉さんほど明確ではないけど、二ノ宮さんだって「アレ」には腹を立てていたし、てっきり二度と顔も見たくないんだと思っていた。
話が予想外の展開に転がって、小手毬さんと影戌後輩も心配そうな顔をしている。唯一、鳶田後輩だけは「ん?」という顔になっているけど、おそらく気付くのも時間の問題だろう。
「私、またアレが花蓮ちゃんにすり寄ってるんじゃないかって、文句言ってやろうと思ったの。でも花蓮ちゃん、アレと話してるのに笑ってて……。そんなの見てられなくて私、その場から逃げちゃって……」
「それは……何だろう、仲直りしたのかな?」
「分かんない……今日も花蓮ちゃんに事情を聞こうと思ったら、『アイツも反省してるみたいだから、話くらいは聞いてやって』なんて言うし……」
「俄かには信じられませんね……」
気持ちは物凄く分かるんだけど、かなりの言われ様だった。
いや、まあ鳶田が二ノ宮さんにした事を思えば、二人の仲が修復不可能だと考える方が自然なんだろうけど。実際、僕も今の話を聞くまでは同じように考えていたし、小手毬さんたちと同様に驚いている。
「あ、あのー……さっきから薄々思ってたんですけど、もしかして内倉先輩の言ってる『アレ』って、お兄ちゃんのことですか……?」
内倉さんが深刻な雰囲気を漂わせているのを、小手毬さんたちが心配そうに見ている中、さっきから話について行けず首を傾げていたはずの鳶田後輩が声を上げた。部室内にいる全員の視線が、自然と彼女に集中する。
「……とうとう気付いたか」
「いや、そりゃあ気付きますよ。途中まではよく分かんなかったですけど、内倉先輩と花蓮さんに関係する人って言ったら、お兄ちゃんじゃないですか」
そこまで言うと鳶田後輩は、困ったように苦笑する。
「まあ、私も自分の兄が『アレ』って呼ばれてるなんて、想像してませんでしたけど……」
「あっ……ご、ごめんね? 私ったら、妹さんの前で……」
「いえいえ、いいんですよ! お兄ちゃんがアレな事をしたのは事実ですし」
ようやく鳶田後輩がアレの妹であると思い出したらしい内倉さんが、慌てて謝罪の言葉を口にした。どうやら「クソ坊主憎けりゃ妹まで憎い」というわけではなかったようで、密かに安心してしまう僕だった。
「あの、それでお兄ちゃんの事なんですけど、多分また言い寄ってるとか、そういう話じゃないはずなんです」
「ん? 鳶田後輩、何か知ってるのか?」
どうも口振りからして、鳶田後輩は事情を知っているようだ。
さっきまでは「アレ」が兄を指しているという確証がなかったので黙っていたけど、ようやく確認が取れたというところだろう。
「はい、実はですね――」
僕らの注目を集めながら、彼女は自分の知る真実を話し始めた。