76.私の兄離れの第一歩
ある日、私のお兄ちゃんが突然頭を坊主にして帰ってきた。
もちろん私は大いに驚いた。
うちのお兄ちゃんは、妹の私が言うのもアレだけどイケメンだ。
運動も凄く出来て昔からヒーローみたいに慕われてたし、当然だけど女子からもモテる。私も同級生から「望ちゃんのお兄さんって格好いいよね」なんて言われて、鼻高々に「そうでしょ!」なんて答えていたものだ。
そんなお兄ちゃんが坊主頭になるなんて、普通では考えられない。
前日までは……というか、その日の朝までは気取った髪形をしていたんだから、どう考えても学校で何かあったに決まっている。
まさか、お兄ちゃんのモテっぷりを妬んだいじめが……?
そんな心配をした私に対して、お兄ちゃんはただ「ちょっと気分転換で」としか言わなかった。
少し短くするくらいならまだしも、気分転換でいきなり坊主頭にまでする?
あり得ない……とは言わないけど、少なくとも今までのお兄ちゃんからは考えられない行動だった。
お兄ちゃんが心配だった私だけど、その時は結局何もしなかった。
本人が事情を話してくれないなら仕方ないし、何より私のお兄ちゃんなら最後には上手く解決してしまうだろうと、信頼を寄せていたからだ。
結論を言えば……それはあまりに浅はかで、根拠のない信頼だった。
もし、この時にもっとお兄ちゃんを追求して、真実を聞き出していれば……。そう思わなくもないけど、きっと大して意味はなかっただろう。
何故なら、この時すでにお兄ちゃんは、大きな過ちを犯した後だったのだから。
「柔道部!? お兄ちゃんが……?」
「そ、そうなんだよ。実はちょっと前から入ってて、道着は貸してもらってたんだけどな。やっぱ借り物って嫌だし、そろそろ自分のが欲しいと思って……」
「へえー、そうなんだ……」
しばらくした後、今度はお兄ちゃんが「柔道部に入った」と言い出した。
私に直接言ったというより、道着を買ってほしくて両親にお願いしたんだけど。
今まで柔道なんて興味がある素振りも見せなかったお兄ちゃんが、急にそんなことを言い出したので、当然両親も驚いていたけど、お兄ちゃんはずっと一つのことに集中して打ち込もうとしてこなかったから、少し心配だったらしい。
驚きはしたけど、本気で打ち込みたいものが見つかったのはいいことだ、なんて言って応援すると決めたみたいだった。
「お兄ちゃんが坊主にしたのも、柔道部に入ったからなの?」
「え? ああ、そうなんだよ、実は。髪が長いと邪魔だし、形から入ろうと思ってな」
「ふーん……それならそうと言ってくれればよかったのに」
「まだ入部したばっかだったからな……。すぐ辞めたりしたら格好悪いし、やっぱ柔道って俺のイメージとは違うと思って、恥ずかしかったんだよ」
お兄ちゃんの言い分は、まあ理解できる。
スポーツ万能なお兄ちゃんでも柔道は未経験だったはずだし、何より真面目に練習に打ち込むという経験がないから、流石に自信がなかったのかもしれない。
ちょっとチャラ目のイケメンだったお兄ちゃんのイメージに柔道が合わないというのも、確かにその通りだろう。
それにしては「形から入る」なんて言って坊主頭にして、ずいぶんと入れ込んでいるなと思わなくもないけど。
まあ色々と怪しいとはいえ、親に頼んで道着を買うからには、柔道部に入ったというのは事実なんだろう。
まさか道着をカツアゲする不良がいるとも思えないし……。
そんな風に結論付けて、私はまたお兄ちゃんを見守ることを決めた。
さらに少し経ち――私は文化部の部室が並ぶ廊下を、大股で歩いていた。
目指すは「恋愛相談部」とかいう、ふざけた名前の部室だ。
流石に高校の運動部ともなると練習が厳しいらしく、毎日疲れた顔で帰って来ていたお兄ちゃんだけど、少し前にポツリと私に愚痴ったのだ。
『実は彼女が出来たんだが、鬼畜野郎に寝取られてしまった』
『しかも取り巻きがいる柔道部に入部させられて、厳しいしごきを受けている』
今の今まで、ずっとお兄ちゃんが苦しんでいることに気付けなかったなんて……。
もっとしっかり話を聞いておけば良かった。そうすれば、もっと早く――。
居ても立っても居られなくなった私は、お兄ちゃんが口にした「鬼畜野郎」がいるという恋愛相談部に出向くことを決めた。
お兄ちゃんは私を心配してなのか「真壁には絶対に近付くな」と言っていたけど、家族が心配なのは私だって同じだ。
格好よくて何でも出来ると思っていたお兄ちゃんが、悪辣非道な鬼畜に彼女を奪われて苦しんでいるのだから、今まで妹として可愛がってもらった私が助けるべきだろう。
そう決意した私は、鬼畜の根城である部室の扉を、勢いよく開いたのだった。
「――で、こうなったわけだけど」
「はい? 何か言いましたか、望さん?……じゃなかった、飛田さん」
「あ、ううん。何でもないよ、知麻っち」
さらに翌日――私は何故か地味な女子に変装して、柔道部の見学に来ていた。
今の私はマネージャー希望の一年生・飛田さんだ。
――恋愛相談部の部室に突撃した私は、そこで衝撃の真実を聞かされることになった。
なんとお兄ちゃんは寝取られたどころか、二人の女子と同時に付き合って振られたというのだ。
当然すぐには信じられなかったけど、被害者である女子二人から同時期に付き合っていたと分かるメッセージ画面などの証拠を見せられて、それが真実だと受け入れるしかなかった。
しかも二人のうち一人は、お兄ちゃんとは中学からの友達で、私にとっても姉同然だった花蓮さんだ。
お兄ちゃんは全然気付いていなかったみたいだけど、私は花蓮さんがお兄ちゃんに恋していたことをずっと知っていたので、そんな彼女の気持ちを弄ぶなんて到底許せそうになかった。
お兄ちゃんが仕出かしたことの愚かさに、思わず花蓮さんたちの前で泣き出しそうになってしまったくらいだ。私が泣いたところで、花蓮さんたちが困るだけなのは分かってたけど。
お兄ちゃんが坊主頭になったのは、花蓮さんの相談を受けた真壁先輩が二股を暴いて、二人に教えたのが原因らしい。
しかも、それで反省したと見せかけて、今度は二人を同時に口説くなんて真似をしたというのだから、もう私にはお兄ちゃんという人がよく分からない。
結局、最後にはまた真壁先輩にやられて、柔道部に連れて行かれたみたいだ。
私がこうして変装までして柔道部を見学しているのは、そんなお兄ちゃんの様子を自分の目で確かめるため。そして柔道部の練習内容が、お兄ちゃんの言うように理不尽なものなのか判断するためだ。
まあ変装なんてしなくても、適当に陰から覗けば良かったと思うけど……。
知麻っちが何故か、私に変装させたがったんだよね。
この子、大人しくて真面目そうだと思ったけど、結構な変わり者だったみたいだ。
流石は真壁先輩の後輩と言うべきだろうか。
とはいえ、せっかく変装して潜入したんだから、しっかりお兄ちゃんの様子を観察しなければ。
そう思って、さっきから練習風景を見ていたんだけど……。
「確かに……お兄ちゃんは、いじめられてないみたいだね」
柔道部に強制的に入れられたのは事実だけど、そうやって性根を叩き直してもらった方が、どう考えてもお兄ちゃん自身のためになるだろう。
こうして実際に見学しても、練習は少し厳しいだけで理不尽なわけじゃない。
今まで真剣にやってこなかった分、柔道という一つの競技に打ち込むのも、お兄ちゃんにとってはいい経験になると思う。
知麻っちの見立てによると、私に嘘を吹き込んだのも悪意からというより身内に甘えたかっただけみたいだし、こうして真面目に励んでいるなら私が必要以上に責める必要もないだろう。まあ一言くらいは、文句を言わせてもらうけどね。
「ま、いいや。私も、そろそろ兄離れの時期って事なのかなー」
そう呟いた後、私はお兄ちゃんが練習している場所を離れた。
……実はさっきから、気になってる人がいたんだよね。
あそこにいる柔道部の主将って、もしかして中学時代の先輩じゃない?
あの頃は委員会が同じで話す機会も多かったけど、恥ずかしながらブラコン気味だった私は、先輩を異性として意識していなかった。
でも今は私も兄離れを決意したことだし、せっかくだから声をかけてみようか。
今にして思うと、あの先輩は結構優しくて、話も合っていた気がするし。
「せーんぱいっ! お久しぶりです! 私のこと、覚えてます?」
そう尋ねると主将さんは少し驚いた後、すぐに顔を綻ばせた。
さて、一体何から話そうか?
「別に貴方まで部室について来なくてもいいんですよ? 望さん」
「えー、行くって。私も先輩たちに言っておきたいことがあるし」
柔道部の活動が終わるより前に、私は知麻っちと一緒に練習を抜けた。
見学の私は遅くまで残る必要がないので、私を連れて来た知麻っちと一緒に帰らせようという配慮なんだけど、私たちはすぐに帰宅しないで恋愛相談部の部室に向かっていた。
知麻っちは私がお兄ちゃんの件を納得したと、先輩たちに伝えるらしい。
私も先輩たちに用があったので、こうして同行することにしたのだ。
「ていうか、この時間にまだ先輩たちっているの? もう帰ったんじゃない?」
私がそう尋ねると、知麻っちは妙に自信ありげな表情で返してきた。
「いえ、いますよ。あの二人が、部室で二人きりになれる時間を無駄にするとは思えません」
「そうなの?……って……あ、本当だ」
話ながら部室の前に辿り着くと、中からも話し声が聞こえてくる。
どうやら知麻っちの言う通り、先輩たちは残っているみたいだ。
「……ねえ、知麻っち。恋愛相談部って楽しい?」
扉を開こうとしている知麻っちに、私はそんな質問を投げかけた。
「はい? 唐突ですね……? まあ、楽しいですよ。美薗先輩は優しいです、真壁先輩も……あれでただの鬼畜というわけでもありませんから」
知麻っちは突然の質問に首を傾げながら、そう答えてくれた。
彼女は割と無表情なんだけど、その表情は付き合いの短い私から見ても、緩んでいるのがよく分かる。
それを見た私は、自分がこれからしようとしていることが間違っていないのだと悟った。
これもまた、私の兄離れのための一歩になるだろう。
「そっか……いいね、そういうの」
「はぁ……? まあ立ち話もアレですし、中に入りますか」
不思議そうな顔をしながら部室の扉に手をかけた知麻っちだったけど、その扉を開く寸前で動きを止めたと思ったら、何故か私の顔を見て言った。
「さて、これから扉を開けますが……念のため、覚悟を決めておいて下さい」
「え、なにそれ? どういう意味?」
「では行きますよ」
「え、ちょ……」
思わせぶりな発言に混乱している私を無視して、知麻っちは部室の扉を開いた。
そして――。
次回は望ちゃんが、恋愛相談部の洗礼を受けることに……!