73.鳶田 望は兄思い④/その頃の小手毬ちゃんと真壁くん
「小手毬ちゃん、今日はどこかに寄って帰らない?」
放課後になると、友達の里利ちゃんがそんなことを言ってきた。
もちろん誘ってもらえるのは嬉しいんだけど、今日の私には用事がある。
残念ながら彼女と一緒に帰ることは出来なかった。
「あ……ごめんね、今日は……」
「……また恋愛相談部?」
「うん、今日はどうしても行っておきたくて」
私がそう言うと、里利ちゃんは少しだけ不機嫌そうな表情を見せた。
彼女は基本的に私に対して優しくしてくれるけど、最近は昼休みも一緒に過ごせないことが増えているから、流石に不満を覚えているのかもしれない。
もっと友達を大切にするべきだろうか……なんて思いつつ、真壁くんと二人きりの時に彼から向けられる、私を慈しむような笑顔を思い浮かべると、どうしてもそちらの方に心が傾いてしまう。
こんなに私を思ってくれる友達がいて、さらには誰よりも愛してくれる彼氏もいるなんて、私はとても果報者だと思う。
「ぐぬ……ハァ……相変わらず仲が良いのね。妬けちゃうわよ、まったく」
私にその気がないのを察したのか、里利ちゃんはやや不満な思いを漂わせながらも、一応は納得している体を取ってくれた。
「あはは……ごめんね? 里利ちゃん」
「別にいいけどね。小手毬ちゃんが彼氏優先になるなんて、思ってなかったわ」
自分が友達より恋人優先になるなんて、数か月前には予想もしていなかった。
私はクラスでは地味な方で、男の子と付き合うなんて妄想の中の出来事でしかなかったし、今は仲の良い彼氏である真壁くんとだって、同じクラスにいても話したことは一度もないような関係だった。
真壁くんが部長を務める恋愛相談部――その部室を私が訪ねた日から、彼とのかけがえのない時間が始まったのだ。
あの日から、私はすっかり真壁くんという男の子に夢中になってしまった。
彼の好きなコーヒーをもっと美味しく淹れられるように日々工夫したり、普段は少しだけ目つきが鋭い彼の優しい笑顔が見たくて、抱き締めてみたり。
部室を尋ねた切っ掛けは、確かに鳶田くんへの片想いだった。
しかしあれは普段接することのないイケメン――今の私にとっては真壁くんが誰よりも格好いいと思うけど、そんな相手に声をかけられて浮かれていたのだと考えると、その後で真壁くんに対して抱いた想いこそが本当の初恋だったのかもしれない。
……そうならいいな、なんて私が思っているだけかもしれないけど。
「そういえば、里利ちゃんは彼氏って作らないの?」
「彼氏? 彼氏ねえ……」
何気なく言った言葉は、当然ながら彼氏のいない里利ちゃんへの嫌味ではない。
私が思っている、純粋な疑問だ。
里利ちゃんはクラスでは地味な女子のグループに所属していて、あまり目立つ方ではない。
でも顔立ちは人より整っているし、スタイルだって決して悪くない。
彼女が地味なグループに分類されているのは、彼女自身が地味というより、私のような気の弱い女子の世話を焼きたがる性格のためだと思う。
だから本人がその気になれば、すぐに彼氏だって出来ると思うんだけど……。
「あんまり考えた事ないわね。男子って、すぐに厭らしい目で見てくるし」
「それは……里利ちゃんが美人っていうのもあると思うよ?」
ジロジロ見られるのが嫌だっていう気持ちは分かるんだけど。
でも里利ちゃんって、割と出るところは出てるんだよね。
「そんなことないわよ。小手毬ちゃんの方が、私よりずっと可愛いわ」
聡里ちゃんはいつものように、私のことを「可愛い」と言ってくれる。
真壁くんも毎日のように「可愛い」って言ってくれるから、私も少しは捨てたものじゃないのかなと思うこともあるけど、里利ちゃんの場合はどちらかと言うと「綺麗」なタイプだから、私と比較しても仕方ないような気がする。
「里利ちゃんは綺麗系だから、その気になれば彼氏もすぐ出来るよ」
「その気になれば、ね。男子にときめいたことって、一度もないのよね」
苦笑する里利ちゃんを見る限り、本人の言う通り今はその気はないようだ。
それなら私がどうこう言っても仕方ないだろう。
私はふと横目で、真壁くんが教室内に残っているか確認した。
彼の席に目をやると、いつものように簗木くんと話しているのが見える。
そろそろ部室に行かないと、ちゃんとお出迎えが出来ないだろう。
「そっか。いきなり変なこと言って、ごめんね? それじゃあ、そろそろ部室に行くから」
「いいのよ別に、気にしないで。それじゃあね、小手毬ちゃん」
「うん、バイバイ、里利ちゃん」
里利ちゃんに別れを告げて、私は一人で教室を出た。
真壁くんが来る前に、早くコーヒーの用意をしないと。
真壁くんよりも一足早く教室を出た私は、部室でコーヒーの用意をしていた。
とは言っても、シンプルなハンドドリップなので大した手間じゃない。
真壁くんはいつも「美味しい」とか「最高」って言ってくれるけど、いずれは専門の器具を使って、もっと美味しいコーヒーを淹れてあげたいと思う。
「うん、いい香り……かな?」
立ち上ってくる香りを嗅いで漏らした声に、私は思わず苦笑してしまった。
今、部室には私一人しかいないというのに、独り言すら自信なさげだった。
結局のところ私は真壁くんに「美味しい」と言ってもらえないと――彼に愛されているという実感がないと、自分に自信が持てないのだろう。
それを「弱さ」と言う人もいるかもしれないけど、私はそれでも構わない。
だって私は、どうせ真壁くんから離れるつもりなんてないのだから。
だから私は、今日もこうして美味しくコーヒーを淹れられるように努力する。
真壁くんはコーヒーが大好きだから、私の淹れたコーヒーが誰よりも美味しければ、きっといつだって私のところに帰って来てくれるはずだ。
「早く会いたいな……真壁くん」
朝から教室で何度も顔を合わせていたというのに、まるで遠く離れた場所にいて、何年も会っていない恋人のような言葉を口にしてしまった。
それでも教室で会うのと、この部室で会うのは全く違う。
里利ちゃんや他の友達には申し訳ないけど、正直に言えばこの部室で真壁くんと一緒にいる時の私が、本当の私なのではないかと思っている。
大好きな真壁くんにだけは何も隠さずにさらけ出してしまう、本当の私だ。
「――あ、来たっ」
考えを巡らせているうちに、真壁くんも部室にやって来たらしい。
私一人の静かな部屋に、もうすっかり聞き慣れてしまった足音が届いてきた。
湯気を立てるカップをテーブルに置いた私は、扉の前に駆け寄る。
どうして私が、同じクラスなのに真壁くんと別々に部室へ向かっているのか。
どうして真壁くんよりも先に、部室に来たかったのか。
それは、とても単純な理由で――。
「真壁くん、おかえりなさいっ」
「ただいま、小手毬さん」
そんなおままごとみたいなやり取りを、したいだけだったりする。
「真壁くん、今日のコーヒーはどうかな?」
「今日も美味しいよ、小手毬さん」
私が尋ねると、真壁くんはすぐにそう答えてくれる。
好きな人のためにしてあげたことが、他ならぬ好きな人に喜んでもらえるというのは、何にも代え難いほどに嬉しい。
もしかしたら私は今、世界で一番幸せな人間なんじゃないかと、錯覚してしまいそうになるほどだ。
自分でも一口、コーヒーを飲んでみる。
――うん、悪くないかも。
最初は砂糖もミルクも入れないのに慣れてなくて、実は大人ぶって飲んでいただけなんだけど、こうやって真壁くんに合わせているうちに、今ではすっかりブラック派になってしまった。
慣れてみれば苦いだけじゃなくて深いコクを感じられるし、何より真壁くんと同じ「好き」を共有しているという事実が、堪らない幸福感を私に与えてくれる。
「望ちゃんの誤解がとけて良かったね、真壁くん」
「……だね。彼女も本当はいい子みたいだし、変に拗れなくて良かったよ」
昨日は鳶田くんの妹さんだという女の子――望ちゃんが突然来てビックリした。
しかも私が鳶田くんの元カノで、真壁くんがそれを寝取ったなんて言われてたんだけど、どうやら真壁くんは二ノ宮さんたちのところに望ちゃんを連れて行ったみたいで、二人が部室に戻ってきた時には落ち着いた感じになっていた。
むしろ真壁くんと望ちゃんは、かなり仲良くなってたようにも見えたけど……。
まあ、いまさら真壁くんが浮気をするなんて、簡単に疑ったりはしない。
真壁くんは少し厳しいことを言う時もあるけど本当はとても優しい人だから、きっと望ちゃんもそんな彼の優しさを理解してくれたんだろう。
「今日は影戌後輩が柔道部に連れて行ってくれたから、それで誤解は完全に解けるんじゃないかな? まあ鳶田が真面目に練習してるなんて、むしろ僕の方が信じられないくらいなんだけど」
「もう、真壁くんってば。知麻ちゃんがそう言ってたんだし、きっと大丈夫だよ」
真壁くんが言った通り、今日は知麻ちゃんが望ちゃんを柔道部に連れて行った。
鳶田くんは割と真面目に練習しているみたいだから、その様子を見せれば望ちゃんの誤解も完全に解けるだろうという話だ。
ちなみに私が今日どうしても部室に来たかったのは、知麻ちゃんたちが不在で真壁くんと二人きりなのが確定しているからだったりする。
もしそれが里利ちゃんに知られたら、また機嫌を損ねてしまうかもしれない。
「私も、本当なら何かした方がいいんだけど……」
昨日は真壁くんが、今日は知麻ちゃんが望ちゃんを説得している。
恋愛相談部の部員の中で、私だけが何もしていなかった。
もっと言うなら、恋愛相談で私が役に立ったことなんて、今までに一度でもあっただろうか?
真壁くんのお願いを聞いて動いたことは何度かあったけど、「私にしか出来ないこと」なんて一つもなかったような気がする。
いつだって私は真壁くんに甘えて、精々コーヒーを淹れてあげるくらいだ。
そんな弱気な思いを口にすると、不意に温かい腕が私を包み込んできた。
「小手毬さんは、いつもよくやってくれてるよ」
「ま、真壁くん? でも、私は何も……」
「してくれてるよ。美味しいコーヒー、いつも淹れてくれてる」
私の頭を抱え込むようにしながら、真壁くんは語りかけてくる。
ただそれだけで、不安だった気持ちが消えていくのを感じていた。
「小手毬さんがいるから、僕はいつも頑張れるんだ。ただいてくれるだけでも頑張れるのに、美味しいコーヒーまで淹れてくれるんだよ? そんなの十分過ぎる」
「真壁くん……」
それはもしかしたら、ただの気休めだったのかもしれない。
仮に真壁くんが今の私に満足してくれているとしても、本当はそれに甘えず私なりに努力するべきなのかもしれない。
だけど、そんなのはどうだっていいと思えた。
だって真壁くんが、「それでいい」と言ってくれているんだから。
たとえそれが甘えだと言われたとしても、真壁くんを疑ってしまったら、私はきっと誰も信じることが出来なくなってしまう。
だから私は、真壁くんを信じている。
「……真壁くんがそう言ってくれるなら、安心かな?」
「そうだよ。なんと言っても、僕は小手毬さんの彼氏だからね」
「うん。私は、真壁くんの彼女だもんね」
真壁くんが抱き締めたままの私の頭を、そっと撫でてくれる。
私はそんな彼の背中に腕を回して、真壁くんの胸に頬擦りをした。
「ごめんね? 急に弱気なこと言っちゃって」
「……本当だよ。小手毬さんが笑顔でいてくれないと、僕が困るんだよね」
「えへへ……だったら真壁くんが困らないように、ちゃんと笑顔でいないとね」
そう言って私は、真壁くんの顔を見上げた。
「だから――もっと笑顔にしてくれる? 真壁くん」
私がそう尋ねれば、優しい真壁くんはいつだって応えてくれるのだ。
「もちろん、喜んで」
真壁くんが、私の左頬に手を添えてくれる。
その手に自分の手を重ねながら、私は目を閉じて――。
「……あの、まだ続ける?」
「ひゃ!?」
――閉じようと思ったら、急に声をかけられて驚いた。
真壁くんの腕の中で視線を動かすと、いつの間にかすぐ傍に人が立っている。
「み、水澤先輩……ノックくらいして下さいよ……」
「したけど、返事なかったから」
真壁くんの言葉に短く答えたのは、生徒会長である水澤先輩だった。
相変わらず凄く美人なんだけど感情の見えない顔で、部室の中を見回している。
「……ちーちゃんは?」
「あ、知麻ちゃんなら、今日は柔道部の方に行ってますけど……」
「そう……じゃあ、後で行ってみる」
どうやら水澤先輩は、幼馴染の知麻ちゃんに用があったらしい。
おそらく少しだけ落胆したような顔をすると、何故か私たちの座っているソファーの向かい側に座り始めた。
「あ、あの……水澤先輩?」
「ごめんなさい。ちょっと疲れたから、休憩……いい?」
「え? ああ、いいですよ。楽にして下さい」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて――」
そう言うと水澤先輩は、テーブルの上にだらりと身体を投げ出した。
そして呆気に取られる私と真壁くんを尻目に、一人で声を上げる。
「ああーっ、もう疲れたよぉぉぉぉっ……!」
……相変わらずビックリするなあ、この変わりよう。
後半で小手毬さんが切れる可能性を考慮して、補給地点を設置。
連載も続いてきて、私もペース配分というものを覚えてきました。
次回は満を持して鳶田くん視点です。
その次が天ちー先輩になります。