71.鳶田 望は兄思い②/影戌ちゃんは健気な後輩
「……お兄ちゃん?」
いきなり部室に乱入してきた不躾な女子生徒の発言に、私たち三人は思わず声を揃えてしまいました。
なんと無作法な人なのか……と思いましたが、よく考えたら私も最初にこの部室に来た時は、小学生呼ばわりされて怒鳴り込んだのでしたね。ここは余計なことは言わず、黙っておきましょう。
それにしても、さっきの声を揃えた場面といい、私もすっかりこの恋愛相談部に馴染んでしまったものです。さっきは真壁先輩と、アイコンタクトなんてしてしまいましたし。
あの鬼畜眼鏡先輩と以心伝心というのは、少し人として大丈夫なのかと不安になる部分もありますが……ふむ、以心伝心ですか……ふふ、悪くない響きです。
叶うなら篤先輩とも、そういう分かり合える恋人同士でありたいものです。
あと筋肉も少し分けていただきたいです。以筋伝筋とでも言いましょうか。
「えっと……『お兄ちゃん』ってことは、誰かの妹さんかな?」
美薗先輩が謎の女子生徒に声をかけたのを見て、私も気を取り直しました。
おっと、いけません。今は私が先輩方と仲良し(断言)という話よりも、彼女のことが最重要でしたね。
声をかけられた女子生徒は、少し怯えた様子で頷いています。
私たちの中で一番害のなさそうな美薗先輩を相手にして、そこまで怯える必要なんてないだろうと思いますが、まあ彼女からすれば完全に敵地ですからね。いくらこちらが女子二人と眼鏡一人とはいえ、緊張するのも止む無しといったところでしょうか。
しばらく狼狽えていた彼女でしたが、私たちが大人しく話を聞こうとしていると分かったようで、ポツポツと語り始めました。
「その……私の名前は、鳶田 望って言います」
「鳶田? もしかして、二年の鳶田の妹なのか?」
「はい、そうです……お、お兄ちゃんのいじめを、止めさせるために来ました!」
これは驚きですね。まさかあの鳶田先輩に、妹がいたとは。
しかも、この感じだと相当慕われているようです。
兄がいじめられていると聞いて、主犯である極悪眼鏡の本拠地に乗り込んでくるくらいですから、生半可な覚悟ではないでしょう。
まあ、あの二股先輩がしでかした事を考えると、多少の痛い目を見るのは自業自得だと思いますが、真壁先輩の精神攻撃がえげつなかったのも事実です。
それを「いじめ」と捉えられるのも、考え過ぎではないのかもしれません。
……いえ、待って下さい。彼女、「もう一人の先輩」って言っていましたね。
まさか人畜無害な美薗先輩を指しているとも思えませんから、もしかして篤先輩のことを言っているのでしょうか……?
「か、彼女を寝取られた上に、厳しい部活に無理矢理入れられたって!」
「寝取ったって……」
「う、うーん……?」
真壁先輩と美薗先輩は、思わず顔を見合わせました。
仲が良いのは結構な事ですが、そういう素振りを見せると彼女にバレますよ。
ほら、何かに勘付いたような顔をしているじゃないですか。
彼女は真壁先輩に続き、美薗先輩を指差して睨み付けました。
「も、もしかして、あなたがお兄ちゃんの元カノですか!? お兄ちゃんという彼氏がいながら、そんな鬼畜眼鏡の女に成り下がるなんて……!」
おっと、また真壁先輩が鬼畜眼鏡認定を受けてしまいましたね。
今回は私は何も言っていませんから、完全に彼女が素で言っていますよ。
やはり真壁先輩は鬼畜眼鏡に見えるのだと、見事に証明されてしまいました。
しかし、そんな鬼畜眼鏡先輩に対して、挑発行為を仕掛けるのは感心しません。
こんなことを言ったら、万の言葉で言い返されて泣かされるのがオチですよ。
「えへへ……真壁くん。私、真壁くんの女だって」
すみません、仕掛けてきたのは真壁先輩ではなく、美薗先輩の方でした。
美薗先輩は「真壁先輩の女」という表現が嬉しかったのか、「鳶田先輩の元カノ」や「成り下がった」という言葉を完全にスルーして、照れ笑いをしています。
相変わらず真壁先輩が大好きですね、この人は。
真壁先輩の方も、そんな美薗先輩に「そうだね。小手毬さんは僕の可愛い彼女だから」なんて言いながら、笑いかけています。
美薗先輩は天然で言っているはずですが、真壁先輩の方は女子生徒に見せつける意図があるのでしょう。あの陰険眼鏡なら、そのくらいはするはずです。
案の定、そんな二人を見た鳶田さん――ややこしいですね……望さんは、戦慄の表情を浮かべています。
「そ、そんな……もう、そこまで調教されて……!?」
「してないから。滅多なこと言うんじゃないよ」
流石に調教呼ばわりは腹に据えかねたのか、真壁先輩が剣呑な声で彼女を咎めました。
そんなに睨んだら、また鬼畜度が上がってしまいますよ、真壁先輩。
「あと小手毬さんを睨むな。彼女は君の兄の元カノじゃないし、僕は寝取ってなんかいない。僕らは純粋に愛し合ってるんだ」
「え……? 元カノじゃ……ていうか、あ、愛って……」
ああ……真壁先輩ときたら、またそんな端的な物言いで……。
普通の女子高生に「愛し合ってる」なんて言ったら、妙な意味に取られても仕方がないじゃないですか。
真壁先輩はわざと惚気話をする時もありますけど、こうやって天然で言っている時もあるので、タチが悪いんですよね。
基本的に美薗先輩への好意を口にするのに、何の気後れも感じていないと言いますか。
「鳶田さん、さっきの『寝取られた』とか『部活に無理矢理』って、誰に聞いたんだ?」
顔を赤くしているのを気にも止めず、真壁先輩は望さんに問いかけました。
微妙に態度が冷たいのは、美薗先輩に対する失礼な物言いが原因でしょう。
それにしても、誰が言ったかですか……。
正直、思い当たる人物は一人しかいませんが、真壁先輩もそれを承知の上で、念のために確認しているのでしょう。
続いて望さんの口から出た言葉は、やはり私たちの想像通りのものでした。
「え? お、お兄ちゃんだけど……」
「やっぱり鳶田か……アイツ、全然反省してないんだな……」
「は、反省? なんで、お兄ちゃんが反省なんて……?」
動揺する望さんを尻目に、真壁先輩だけでなく私や美薗先輩まで、呆れた顔をしていました。美薗先輩に呆れ顔をさせられるなんて、鳶田先輩か真壁先輩くらいのものです。
「真壁先輩、どうやら彼女は真相を聞かされていないようですが……どうしますか?」
うっかり「寝取りますか?」なんて付け加えそうになりましたが、流石に話がややこしくなりそうなので、ここはじっと我慢です。
真壁先輩をからかうのは正直とても楽しいですが、何も本気で困らせたいわけではありませんからね。
「ちょっと待ってくれ」
私の質問には明確に答えないまま、真壁先輩はスマホを取り出して操作を始めました。
そして一分もかからずにしまうと、望さんの方を見て一言。
「全部説明するから、ついて来い」
「は? え、説明って……あ、ちょっと!?」
彼女の腕を掴み、有無を言わせず歩き始めた真壁先輩。
いつもの先輩らしからぬ行動に、思わず美薗先輩と顔を見合わせてしまいました。
「真壁くん、どこか行くの?」
「うん、ちょっと彼女に色々と説明してくるよ。協力してくれる人もいるから、小手毬さんたちはここで待ってくれるかな? あんまり大勢で押しかけてもアレだし」
「う、うん……気を付けてね」
美薗先輩に笑顔で声をかけた先輩を見て、私は思いました。
――今こそ真壁先輩をからかう時だ、と。
今の真壁先輩は、少しばかり苛立っているようです。
大方、鳶田兄が懲りていないと思ったからでしょうけど、それで妹さんを怖がらせるのは得策ではありません。
ここは健気な後輩である私が、小粋なからかいで肩の力を抜いて差し上げるべきでしょう。
「真壁先輩」
「どうした? 影戌後輩」
「……あまり酷い事はしないであげて下さいね」
「…………」
真壁先輩は足を止めて私の顔を見た後、苦笑いを浮かべて――。
「しないから。変なこと言うんじゃないよ」
いつも通りの調子で、そう言いました。
「ならいいです。では、いってらっしゃい」
「ハイハイ、いってきます」
「ちょ、私は行くなんて、一言も言ってないんだけど!?」
抗議する望さんをスルーして、今度こそ真壁先輩は部室を出て行きました。
扉が閉まった後、向こう側から聞こえてくる望さんの声が、徐々に小さくなっていきます。
しかし相手が女子とはいえ、有無を言わせず引っ張っていける辺り、どうやら真壁先輩は鍛錬を怠っていないようですね。感心なことです。
そんな風に考えて振り向くと、何故か美薗先輩がニコニコ顔で私を見ています。
「……なんでしょうか? 美薗先輩」
「ううん、別に? 知麻ちゃんは立派な後輩だなーって、思っただけ」
「……そうですか。それは、ありがとうございます」
ありがたいですけど、お願いですからその笑顔は止めて下さい。
「……ねえ、知麻っち。この変装って意味あるの?」
「貴方のお兄さんが、ちゃんと練習に参加していることを確認したいんでしょう? それならバレないように見るのが一番ですよ、飛田さん」
「その微妙な名前も、どうかと思うんだけどなあ……」
その翌日、私は飛田さん――変装した望さんを連れて、柔道部に来ました。
昨日、部室に戻ってきた真壁先輩は、見事に望さんの説得に成功していました。
決して失敗するだろうと思っていたわけではないのですが、戻ってきた後のしおらしい望さんの態度は、あまりに少し前と違って驚いてしまいました。
協力者というのは大体想像が付きますが、どんな説明をしたのでしょうか?
まあ、それは別にいいでしょう。
重要なのは、望さんが兄の蛮行について理解したという事です。
残るは柔道部で酷い目に遭わされているという誤解を解く事なので、それについては私が引き受けました。
真壁先輩ばかり働かせていては、次期部長の名折れですからね。
美薗先輩は、まあ真壁先輩を甘やかすのが仕事みたいなところがあるので、ある意味では常に全力で働いているようなものです。
ちなみに望さんの変装は、私が施しました。
篤先輩を陰ながら見守っていた頃に培った技術なのですが、今でも腕は鈍っていないようです。
以前の真世先輩もなかなかでしたが、今回も非常にいい出来ですね。
「何を言うんですか。こうして本名に近い名前で、ぎりぎりを攻めるのが変装の醍醐味ですよ」
「……知麻っちは普通だと思ったんだけど、やっぱあそこの部員だけあるね」
「その『知麻っち』というのも、私は大概だと思いますが」
「え、なんで? 可愛くない?」
どうやら望さんは、独特のネーミングセンスをお持ちのようですね……。
まあ不快な呼ばれ方ではないので、別にいいんですが。
そうしてマネージャー体験という名目で、柔道部の練習を眺めていた望さんでしたが……。
「確かに……お兄ちゃんは、いじめられてないみたいだね」
しばらくすると、ボソッと呟きました。
「練習は厳しいけど、別に理不尽なわけじゃないし。ていうか、あんな真似をしたんだから、もっと酷い目に遭わされても不思議じゃなかったんだよね……」
「……まあ見ての通り、積極的というわけではありませんけど、練習自体は割と真面目にやっていますよ。多分、事情を知らない妹である貴方に、甘えていたんだと思います」
真壁先輩は実際に見た事がないから実感がなかったようですが、鳶田先輩は一応無理に引っ張らなくても練習には来ますし、最近は少しずつ柔道にハマっているような兆候も見受けられます。
望さんにも言った通り、全く反省していないというよりも、妹相手に本当のことを話せなかったのではないかと、私は思っています。
真壁先輩にもその辺りを説明したら、とても疑わしい表情をされましたが。
「ま、いいや。私も、そろそろ兄離れの時期って事なのかなー」
そう呟くと、望さんは他の部員たちがいる方へ歩いて行きました。
昨日の時点では、兄の蛮行を知ったショックがまだ抜けていなかったようですが、今はそこまで思い詰めている様子でもないですね。
そのあたりも気にするよう真壁先輩たちに頼まれていたので、安心しました。
望さんが歩いて行った方を見ると、どうやら彼女は柔道部の主将と話しているようです。
マネージャー希望を自称している彼女に、色々と説明をしているのでしょう。
とりあえず彼女のことは、あちらに任せておいても大丈夫そうですね。
さて、どうやら篤先輩も休憩に入るようですし、私もマネージャーの仕事を全うしましょうか。
次回は真壁くんが望ちゃんを連れて行った先の話です。
謎の協力者の視点になります。