69.部室の新しい間取りと、新たな訪問者
小手毬さんと二人きりの楽しい昼休みを過ごすようになって、僕の高校生活は一層の彩りを得られるようになった。
昼休みの部室なら、基本的に僕らの他には誰も来ないので、僕も小手毬さんも普段より少し大胆な振る舞いが出来る。
そう思うと、もっと早く小手毬さんを昼に誘うべきだったと、今更ながら後悔してしまった。
とはいえ、いくら小手毬さんと過ごす昼休みが楽しいからといって、毎日のように彼女を部室に連れ出すわけにはいかない。
小手毬さんにも、女子同士の友人付き合いというものがあるからだ。
具体的に言うと教室から彼女を連れ出す度に、僕を親の敵のように睨み付けてくる信楽さんとか。
彼女の悔しそうな顔を見ると僕の溜飲が下がるとはいえ、あまり刺激し過ぎて刺されたりしたら堪ったものではない。
そんなわけで最近の僕と小手毬さんは、ほどよい加減で二人きりの時間を過ごしているのだ。
「真壁くん。はい、あーん」
「あーん」
小手毬さんの愛らしい声に従って口を開けると、爪楊枝で刺されたガトーショコラが放り込まれた。
もぐもぐと咀嚼すると、しつこすぎない甘さが口の中に広がる。
小手毬さんのお手製という事も相まって、絶品と呼んでも過言ではない美味しさだった。
「美味しい? 真壁くん」
「最高だよ。小手毬さんも、ほら」
そう言って僕は、小手毬さんが持っていた爪楊枝をそっと抜き取って、一口サイズに切り分けられたガトーショコラのひと切れを突きさす。
「あーん」
そうして小手毬さんの口元に差し出すと、彼女は恥ずかしげに頬を染めながら、おずおずと口を開いた。
「な、なんか自分がされると、ちょっと恥ずかしいね……あ、あーん」
僕の持った爪楊枝を咥える形で、小手毬さんがガトーショコラを口にする。
さっき僕に食べさせてくれた爪楊枝をそのまま使っているけど、流石の小手毬さんも間接キスくらいで恥ずかしがるような段階は、とっくに過ぎていた。
「どう? 小手毬さん」
僕の時と同様、もぐもぐと口を動かす小手毬さんに問いかけると、飲み込む仕草をした後に照れ笑いで答えてくれる。
「えへへ……美味しいかも」
「でしょ? 小手毬さんが作ってくれるお菓子は、やっぱり絶品だよ」
「そ、そこまで言われると、照れちゃうよ……まだあるから、いっぱい食べてね?」
「もちろん。小手毬さんが食べさせてくれるなら、いくらでも入りそうだ」
今はソファーに寄り添うように座っているから、ガトーショコラだけでなく小手毬さん自身の甘い香りも堪能することが出来る。
この状況で小手毬さんに手ずから食べさせてもらえるのだから、胃袋の容量が無限であると錯覚してしまうのも無理はないだろう。
しかし小手毬さんは、そんな僕に困ったような笑みを向けてくる。
「嬉しいけど、あんまり食べ過ぎると体に悪いよ?」
「小手毬さんの料理で太るなら、僕は本望だけどね」
「うーん……ちょっとくらい太っても、真壁くんのこと嫌いになったりはしないけど、ずっと元気でいてくれると私は嬉しいな」
「確かに……そうだね」
言われてみれば、小手毬さんとの幸せな生活を長く楽しむなら、やはり健康なまま長生きするのが何よりも重要である。
僕が健康志向で生きていく事を、心に決めた瞬間だった。
小手毬さんの手によって再度口に届けられたガトーショコラの甘い残り香を、ほどよい苦味のコーヒーで流し込んでいく。
相変わらずコーヒーの方も、格別の美味しさだった。
美味しいお菓子にコーヒー、小手毬さんの笑顔、そして彼女が手ずから僕に食べさせてくれるという今の状況。
もしかしたら僕が世界で最も幸せな人間かもしれないと、錯覚してしまいそうだった。いや、もしかしたら錯覚ではない可能性すらある。
「真壁くん? 何か可笑しかった?」
小手毬さんに言われて、僕は自分がいつになくニコニコと笑っている事に気付いた。
なので不思議そうな顔で首を傾げている小手毬さんに、ありのままを答える。
「いや……ただ、こうして小手毬さんと二人でいると、凄く幸せだなって思って」
「真壁くん……えへへ、私も真壁くんと一緒で、凄く幸せ」
やばい、ちょっと幸せ過ぎて、頭がどうにかなりそうだ。
もう授業とかどうでもいいから、ここで小手毬さんと二人で暮らせばよくない?……なんて言いたいところだけど、現実はそうもいかないのは分かっている。
昼休みの終了時刻が迫っているのを僕が確認している横で、小手毬さんがテーブルの上に置いてある冊子に気付いて、質問を投げかけてきた。
「真壁くん、これなに?」
「ああそれ? この前行った家具屋で貰ってきたカタログだよ。今日の放課後は影戌後輩も顔を出すらしいから、新しいソファーについて話し合おうと思って」
すでに家具屋に行った日から数日が経過しているのだが、その間は影戌後輩が柔道部のマネージャー業務で来られなかったし、僕も小手毬さんとイチャイチャするのに忙しかったので、話が停滞した状態になっていたのだ。
一応、僕の方でも目星は付けてあるんだけど、せっかくだから部員みんなで話し合いたいところだ。
「それなら、今から二人で見る? 教室に戻るまで、少しだけ時間あるよ?」
「いや……」
小手毬さんの提案に、僕は首を振って答えた。
確かに時間は少し余っているけど、どちらにしろ影戌後輩の意見も聞くわけだから、ここで話し合っても二度手間になってしまうだろう。
「それより時間があるなら、二人きりの時にしか出来ないことしようか」
僕がそう言うと、小手毬さんは恥ずかしげに目を伏せて、小さく頷いた。
「うん……そうだね」
昼休みが終わるまで、あと少し。
今日もぎりぎりのところまで、二人の時間を楽しませてもらおう。
そんなわけで影戌後輩も加えて話し合った結果、新しく部室に導入するソファーが決まり、茅ヶ原先生の許可も無事に下りた。
そして数日が経った今日、そのソファーが部室に届いたのだった。
「こんな感じか……あんまり動かさなかったから、簗木を呼ぶまでもなかったな」
「篤先輩は大会前ですからね。あまり手を煩わせたくありません」
模様替えというより、今までの間取りに新しいソファーを追加するだけだったので、業者の人にソファーを運び込んでもらった後は、僕だけでも十分だった。
最悪の場合は、簗木を助っ人に呼ぼうと考えていたんだけど、影戌後輩の言う通り大会前で練習に打ち込んでいるアイツを呼び出すのも、少し気が引ける。
こうして僕だけで模様替えが出来たのは、まさしく僥倖だろう。
「というか、影戌後輩だってマネージャーなんだから、別にムリして顔出さなくても良かったんだぞ?」
正規のマネージャーじゃなくて、勝手に簗木の専属になっているんだけど。
すると影戌後輩は、いつも通りの真面目な顔で首を振った。
「いえ……いずれ私の城になる部室ですから、新しい姿を確かめておかないと」
「城って」
確かにいずれは影戌後輩に、部長の座を譲るつもりだけど。
まあ彼女なりに、うちの部に愛着を持ってくれているのだと好意的に解釈しておこう。
「これでお客さんが来ても、知麻ちゃんが座るところがなくならないね!」
「いえ、そもそも部長が自分の席に座れば……ああ、いいですよ別に。だから美薗先輩も、そんなに悲しそうな顔をするのは止めて下さい」
僕をからかおうとした影戌後輩だけど、僕が部長席に座るということは他の人の隣に座れないという意味なので、小手毬さんの方がショックを受けたような顔をしていた。
まあ今回の模様替えは、そこを解決するのが目的みたいなものだからな。
部室の間取りについてざっくりまとめると、まず扉を開くと中央にテーブルが置いてあって、その左右に向かい合う形で二人掛けのソファーが置かれている。
そして奥の窓際には立派な部長席があるというのが、従来の姿だ。
ちなみに左右にはロッカーや本棚が並んでいて、左側には小さめのシンクがある。そこにケトルや給茶スペースが設けられていて、小手毬さんの美味しいコーヒーはこの場所で生み出されるのだ。
そして今回の変更によって、扉を開けると背を向けている状態――要するに部長席の向かいにくる形で、二人掛けのソファーがもう一脚追加された。
これは小手毬さんも言った通り、基本的に影戌後輩が座ることになるだろう。
影戌後輩も部長席を正面に睨むこの配置はお気に入りのようで、「部長の座を奪おうという意欲が高まります」と嬉しそうに言っていた。いや、この子、ちょっと部長の座を欲しがり過ぎじゃない?
ついでに部室の右の壁際に多少のスペースが余っていたので、小さめのソファーをもう一脚置いてみた。ちょうど安売りしていたからな。
このソファーは、まあおそらく茅ヶ原先生がいる時に使うだろうと思う。
こんな感じで、我が恋愛相談部の部室は進化を遂げたのだった。
「……立派になったもんだな。僕と先輩しかいなかった頃とは、大違いだ」
「安心して下さい、真壁先輩。いずれ私が、もっと大きくして見せますので」
僕が感慨深い思いを口にすると、影戌後輩がそう宣言して見せた。
いつもの軽口のようにも聞こえるけど、やはり彼女なりに僕の「この部を立派にしたい」という思いを、実現しようとしてくれてるのだろう。
自分の後を継いでくれる人がいるというのは、なかなか悪くない気分だ。
杉崎先輩も卒業前は、こんな気持ちになっていたんだろうか。
「影戌後輩なら出来る……って言ってやりたいところなんだけど、その前に一年の部員をもう一人くらいは増やしたいところだな……」
「そうだね。今のままだと私たちが卒業したら、知麻ちゃんだけになっちゃうもんね」
「それは……」
実際には茅ヶ原先生も残るだろうとは思うけど、先生は逆にいついなくなるか分からない部分があるし、やはり顧問と部員では色々と違うはずだ。
僕と小手毬さんの言葉を聞いて、寂しそうな表情になった影戌後輩に「まだ先の話だから」と声をかけようとしたけど止めておいた。
僕だって杉崎先輩が卒業する時には、「もういなくなるのか」と思ったものだ。
共に過ごす時間がどれだけ長くても――むしろ長ければ長いほど、別れの時には寂しさを覚えてしまうものなんだろうと思う。
しんみりしてしまった雰囲気を和らげるべく、小手毬さんとアイコンタクトをして何か言おうと思っていると、部室の扉が勢いよく開かれた。
「た、頼もう!」
威勢よく投げかけられた言葉に、僕らは一斉に視線を向ける。
するとそこにいたのは、一人の女子生徒だった。
「えっと……どちら様?」
一言で言うと、割と派手なギャルっぽい女子だった。
茶色に染めた髪は肩口で切り揃えられていて、似たような雰囲気の楠さんと比べると、この子の方が少し短めでパーマがかかっていない。
軽めの化粧もしているようで、校則ギリギリ……いや、よく見ると右耳にだけピアスがあるから、完全に校則違反だな。
制服のリボンを見ると一年生の色だったので、影戌後輩に視線を送ってみると、彼女は一瞬迷ったような表情をした後、僕の意図を察して首を横に振った。
どうやら影戌後輩の知り合いではないらしい。念のため小手毬さんの方も見たけど、やはり影戌後輩と同じ反応をしただけだった。
当然ながら僕も知らない――はずなんだけど、どこかで見たような気がしないでもないな……。
「あ、あなたが真壁先輩ですか!?」
謎の女子生徒は入口に立ったまま、僕の方を指差してきた。
うん、なかなか失礼な少女だな。
「そうだけど。人を指差すんじゃありません」
「あっ……し、失礼しました……!」
僕が無作法を指摘すると、女子生徒は申し訳なさそうに腕を下した。
思ったよりは、話が分かりそうな反応だな。
なんて考えた僕だったけど、彼女はすぐに怒ったように声を荒げてきた。
「って、そうじゃなくて!」
気を取り直した彼女は、再び僕を指差してくる。
僕がもう一度注意をする間もなく、勢いよく言葉を続けた。
「あなたともう一人の先輩が、お兄ちゃんに酷い事をしてるって聞きました! お兄ちゃんをいじめるのは止めて下さい!」
「……お兄ちゃん?」
僕と小手毬さん、そして影戌後輩の声が完全に揃った。
間違いなく過去最高に、僕ら三人の心が一つになった瞬間だろう。
ふんすと鼻息荒く、僕を睨みつける謎の女子生徒。
新たなスタートを切った恋愛相談部に、また変わった来訪者がやって来たのだった。
果たして謎の女子生徒の正体とは……!?