64.金名 京介の頼み事①
麗らかな休日の昼下がり、僕は待ち合わせ場所に指定された駅前で、行きかう人々の姿を何とはなしに眺めながら立っていた。
今日はこれから天使な小動物・小手毬さんと待ち合わせをしてデート……といきたいところなのだが、残念ながら僕の待ち人は世界一愛らしい彼女ではない。せめて小生意気ながらも可愛い後輩が相手なら、僕の溜飲も少しは下がるというものだが、生憎なことに影戌後輩ですらない。
そう、今日の僕が待っている相手は――。
「おはよー、真壁くん。悪いね、休みの日にわざわざ」
「ハァ……どうして僕はせっかくの休みに小手毬さんじゃなくて、金名なんかと待ち合わせしてるんだ……」
「いきなり酷過ぎだろ!? だから『悪い』って言ってるじゃんか!」
金名 京介。
僕のクラスメイト・楠 舞奈さんの彼氏であり、元・ナンパ野郎だ。
うん。休日を共にする相手として、こんなに不満な男もなかなかいないな。
何故、僕が金名と街に繰り出しているかと言えば、それは先日――。
「というわけで、ヒロくんとは真剣にお付き合いすることになったわ。正確には仮の段階で、恋人になるのは彼が卒業してからだけど」
相談から一夜が明けて部室に姿を見せた茅ヶ原先生は、開口一番にそう言った。
僕としては、「大人としての分別」を理由に先生が断わる可能性も考えていたんだけど、昨日の取り乱し方や、目の前で話す当人から隠し切れずに漂ってくる慈しむような雰囲気からして、予想以上に人間味のある人だったようだ。
「わあっ、おめでとうございます、先生!」
「本当におめでたいことです。先生も、女を見せましたね」
先生の交際報告を受けた小手毬さんが、花の咲いたような笑顔で祝福の言葉を贈る。影戌後輩も同様に……と言いたいところだけど、「女を見せる」というのは何だろうか? この後輩は、たまに変な言い回しをする時があるな。主に筋肉とか。
まあ、筋肉バカで変わり者の後輩はともかくとして、先生と門脇の事は素直にめでたい。本当はめでたいだけでは済まない問題もあるのだろうが、そこは愛の力と大人の立ち回りというヤツで上手く乗りきっていただきたい。
「先生、おめでとうございます。これから色々と大変かもしれませんが、言ってくれれば僕らも力になりますから」
ひとまず諸問題は余所に置いて、先生と門脇のカップル成立を素直に祝福する。
他ならぬ先生が門脇と一緒に歩いて行くと決めたのだから、相談に乗っただけの部外者である僕らが気にし過ぎても仕方のない話だ。
「三人とも、ありがとう。なかなか人に話せる内容じゃないから、そうやって祝福してもらえるのは凄く嬉しいわ。でも……」
そう言って先生は先程までの幸せな様子を一転させて、陰鬱な表情になった。
疲れた笑顔と俯いた姿勢のせいか、どんよりとしたオーラが見えるかのようだ。
「他の人には話せないから、婚活を勧められる事には変わりないのよね……」
「あー……」
どうやら両親や周囲から結婚を急がされる現状が変わらないままだという事実に、いまさらながら気付いてしまったらしい。
「あ、そっか。先生のご両親にも、まだ話せないんですよね」
「むしろ逆に、どうにか穏便に断るという手間が増えたのでは? 一応、真剣に臨んでいた以前と違って、今の先生にその気はないわけですし」
「そうなのよ……『もう相手がいる』なんて言ったら、両親も知人も『じゃあ会わせろ』って言うに決まってるし……。どうせ断るのに、めかし込んで相手に会うなんて憂鬱で仕方ないわよ。ヒロくんは顔に出さないでしょうけど、いい気はしないだろうし……」
「うわぁ、大変ですねえ……」
これから確実に訪れるであろう苦難を思い描いて、先生は泣き言を漏らす。
門脇と正式に付き合うために必要な通過儀礼とはいえ、こういう形で試練が降りかかる事になるとは、全く予想していなかったようだ。
そんな先生の姿を、小手毬さんと影戌後輩も同情の目で見ている。
「思わぬ落とし穴でしたね。まさか、そんな事で悩む羽目になるとは……」
「そうだね。ビックリしたよね、真壁くん?」
「え? あ、ああ、そうだね。ビックリしたよ」
「……真壁くん?」
しまった。急に話を振られたせいで、つい不自然な反応をしてしまった。
流石に小手毬さんも、訝しげな目を向けて……あ、ジト目も可愛い。
そして当然ながら、僕に対してはジト目がデフォルト気味な後輩も、すっかり慣れ親しんで安心感さえ覚えるようになった目を向けてきていた。
「真壁先輩、もしかして気付いていたのでは? 先生がこうなる事に」
「ええ? そうなの、真壁くん?」
「いや……まあ、その……ねえ?」
正直に言おう。僕は昨日の時点で、こうなるだろうと気付いていた。
元は先生が婚活に悩んでいるという相談だったが、門脇と付き合ったところで両親や周囲に話せるわけがないので、「婚活」そのものからは逃れられないだろうと予想していたのだ。
「そんなことを事前に言って、門脇が振られる理由にされたらマズいだろ?」
「あ、そっか。そうなったら門脇くん、可哀想だもんね」
「まあ、理屈は通っていますね」
小手毬さんは僕の説明に納得してくれたけど、影戌後輩はまだ疑っている顔だ。
大方、鬼畜眼鏡である僕が嫌がらせ目的で先生に教えなかったとでも、考えているのだろう。……あまりに言われ慣れて、自分で鬼畜眼鏡と認めてしまった。
まあ、影戌後輩がどう思っていようと、昨日の時点で先生にこの話を伝えるわけにはいかなかったのは事実なので、どうしようもない。
そんな事よりも、相談が解決したのなら先生に頼みたかった事があるのだ。
「先生。相談に乗った代わりというわけではないんですが、一ついいですか?」
「……え? あ、ああ、何かしら、真壁くん?」
「真壁先輩、今度は見返りの要求を……」
だから違うって言ってんだろうが。いや、今のは多分、影戌後輩なりにじゃれついてきているんだろうけど。
この子、相変わらず親愛表現なのか本気の反応なのか、たまに判断に迷うな。
「うちの部のことで、ちょっとお願いがあるんですけど」
「……真壁先輩に無視されてしまいました。とても悲しいです」
「よしよし。真壁くんはちょっと忙しいだけだからね、知麻ちゃん」
戦略的スルーを決め込んだ僕の後ろで、表情一つ変えずに悲しんでいた影戌後輩が、小手毬さんに頭を撫でられている。
コイツ、何気に新しい芸風を身に付けやがった……。
その無表情で「とても悲しい」なんて、本人も真面目に騙す気ないだろ。
僕に軽口を叩いて甘え、小手毬さんには普通に甘える。一挙両得としか言い様のない、恐ろしく効率的な新ネタだった。
「あなたたち、意外と愉快な集まりだったのね……」
先生も、それで納得しないで下さい。
「ハァ……まあ、あのやんちゃな後輩は置いておくとして、先生に顧問としてお願いがあるんですよ」
「ああ、そういう話だったわね……。何かしら?」
「この部室に、もう一つソファーか何かを置きたいんです。部費で買えませんか? どこかに余っているものがあるなら、それを譲って貰うのでも大丈夫ですけど」
僕の頼み事とは、まさしく茅ヶ原先生の相談の時に思い付いた、部室の間取りの見直しについてである。
現在、我が部室には窓際の部長席の他に、部屋の中央でテーブルを挟んで向かい合う形でソファーが二つ置かれている。要するに、応接セットというヤツだ。
僕と杉崎先輩の二人だった頃は、先輩が部長席にふんぞり返って偉そうにしていて、それがまたえらく似合っていたものだ。
先輩が卒業して、部員が僕一人になった後はもちろん問題なかったし、小手毬さんが入部しても余裕があった。
問題が出たのは、影戌後輩が入部してからだ。
相談者と向かい合って僕と小手毬さんが座ると、影戌後輩の座る場所がなくなってしまう。いや、正確には部長席が空いているんだけど、彼女は「まだ部長ではありませんから」と言って、頑なにあの席には座ろうとしないのだ。
そこで座らないのは彼女の拘りなので、特に本人から文句は言ってこないけど、この間のように後ろにずっと立たせておくのも決まりが悪い。
だから、この機会に新しくソファーを仕入れて、相談者がいる状況でも皆が座れるような間取りにしたいと考えたのだ。
……という旨を簡潔に説明すると、先生は怪訝そうな顔をした。
「影戌さんもそうだけど、あなたたちの誰かが部長席に座れば済む話なんじゃないかしら?」
なるほど。先生の言うことは、もっともなのかもしれない。
しかし僕には、あの席に座れない切実な理由があるのだ。
「だって、小手毬さんの隣に座りたいですし」
「私も真壁くんの隣がいいです」
「真壁先輩から部長の座を簒奪するまで、妥協は許されません」
「ええ……?」
あんなに立派なのに、誰からも必要とされていない部長席だった。いや、影戌後輩は必要としていないわけじゃないけど。ていうか、簒奪ってなんだよ。
まあ実際のところ、相談を受けるなら相手の前に座って目線を合わせるべきなので、僕が部長席にしか座れないのは都合が悪いのだ。決して色ボケだけが理由というわけではない。
「よく分からないけど……部費は全然使ってないみたいだから、ソファーくらい買っても大丈夫だと思うわよ。というか、『恋愛相談部』なんてところに部費が出てること自体、私には不思議なんだけど」
「まあ、創設者は杉崎先輩ですからね……」
「杉崎さん……? ああ、彼女ね」
茅ヶ原先生は、少なくとも去年もこの学校に在籍していたので、杉崎先輩のことは知っているらしい。
そしてあの人のことを知る人間なら、こんな胡散臭い部活を学校に認めさせた上に、部費まで獲得しているという事実をなんとなく受け入れてしまえるだろう。
あの人は、そういうよく分からないけど凄いところがあるのだ。
「まあ、杉崎さんはともかくとして、学校に余ってるソファーは今なかったと思うから、こういうのが欲しいっていう希望があれば聞くわよ? 通るかは別だけど」
「希望ですか……?」
「なければ家具屋なんかで見てきてもいいわよ。ネットでもいいけど、現物があった方がイメージが湧くんじゃないかしら?」
「なるほど。そうですね……」
家具を見に行く。つまりデートという事なのでは?
そう思って小手毬さんの方を見ると、彼女は申し訳なさそうな顔を向けてきた。
「ごめんね、真壁くん。今週末はちょっと……」
「そ、そっか……。まあ急な話だし、仕方ないよ」
ぐぬぬ……小手毬さんとのデートは無理か……。
来週に回してもいいけど、その間にまた相談が来るかもしれないから、こういうのは早く済ませたいな。
そもそもこの件を今週末に片付けたとしても、普通に小手毬さんとデートすればいいわけだし。
「じゃあ、影戌後輩は……」
「……寝取りですか?」
「違うに決まってんだろ」
無表情で、とんでもないこと言い出したぞ、この後輩。
流石に冗談なのが明らかだから、小手毬さんも苦笑いしているけど。
いや、残念ながらこういう冗談になれていない人が、この場に一人だけいた。
「真壁くん……あなた、小手毬さんという子がいながら……」
「いやいや、違うって言ってるじゃないですか。影戌後輩の軽口ですよ」
「……そうなの?」
被告である僕は信用できないのか、先生は小手毬さんに視線を移した。
世界一可愛い弁護人・小手毬さんは、苦笑いのまま僕のフォローをしてくれる。
「あはは……こう見えて知麻ちゃんって、結構お茶目なんですよ」
「真壁先輩は、つい弄りたくなる眼鏡をしているので」
「眼鏡って」
「そう……よかった。今度こそ責任問題になるかと思ったわ……」
先生はそう言って安堵の溜め息を盛大に漏らしているけど、本気で僕が後輩を寝取るような人間だと思っていたんだろうか? うん、違うと思いたい。ちょっとだけ答えを聞くのが怖いので、敢えて確認はしないでおくけど。
「冗談はそこまでにして、影戌後輩が簗木とデートがてらソファーを見てくるのはどうかって話だよ。別に行った先で買うわけじゃないから、問題ないだろ?」
「ああ、そういう意味ですか。篤先輩とデートしたいのは山々ですが、もうすぐ大会がありますので部活は休めませんね」
「大会って、柔道部の?」
「そうです」
念のために聞いてはみたけど、そもそもレスリング部は学校に認められていなくて勝手に名乗っているだけなので、大会に出られるはずもないだろう。まあ、個人で出場できるような大会も、探せばあるのかもしれないけど。
しかし、そうなると今週末に暇なのは僕だけか。
正確には先生の予定は知らないけど、流石に二人で出掛ける選択肢はない。
どうせ単なる下見だし、別に僕一人でも……と思っていたら、ノックもなしに部室の扉が開かれた。おいおい誰だよ、不躾な。
「ちわーっす。ちょっと真壁くんに、お願いがあるんだけど」
「……金名?」
不躾な訪問者の正体は、楠さんの恋人である金名だった。
金名がうちの部室に来るのは久しぶりだけど、楠さんに会うために僕らのクラスに来ていることは多いから、割と顔を合わせる機会は多い。
そんな金名が、わざわざこの部室を尋ねてくる理由とは、一体なんだ?
「なんだよ改まって。どうかしたのか?」
「うん。悪いんだけど、真壁くん。今週末、俺の買い物に付き合ってくれない?」
「は?」
予想外にタイムリーな頼み事に、思わず呆けた声を出してしまった。
ふと影戌後輩を見ると、頷きながら「なるほど、衆道ですか」と呟いていた。
おいやめろ。小野寺さんが喜んじゃうでしょうが。
次回は金名くん以外のキャラも出てくる予定です。