63.たとえ最初は恋じゃなかったとしても
「えっと……有瀬姉。念のためだけど、OKって事でいいんだよな?」
しばらく私と抱き合って泣いていたヒロくんが、ふとそんな事を聞いてきた。
おそらく体感で十分以上は経っているから、流石に彼も冷静になったようだ。
そうなると私も落ち着いて……って、落ち着いてみると、今の体勢って結構恥ずかしくない? だって今、ヒロくんと正面から、だ、抱き合ってるわけで……。
ヒロくんとは彼が幼稚園に通っていた頃からの付き合いだから、まあ抱き締めたことだってある。でも、それは小さな子供をあやすために抱き締めただけで、こうやって愛し合う男女のような情熱的な好意ではなかったはずだ。
あ、愛し合うか……。自分で思い浮かべておいて、物凄く照れてしまう。
私、ヒロくんに告白されて、しかもそれを受け入れてしまったんだ。
「ヒロくんの気持ちを受け入れるっていう意味なら、もちろんOKよ?」
「あ、有瀬姉!」
私が頷くと、ヒロくんは嬉しそうな顔になって、抱き締める力を強めてきた。
ちょっと強いわね……。気持ちは分かるから、文句なんて言わないけど。
こうやって正面から抱き合っていると、ヒロくんが私の思っていた以上に成長していたことが分かる。身長は私と大して変わらないし、抱き締める力だって強い。
こんなに大きくなっていたのに、私はずっと彼を子供扱いしていたのか。
ヒロくんが不安で泣いてしまった気持ちも、今なら理解できる。
「あっ、有瀬姉だと、いつまでも弟っぽいかな。えっと……あ、有瀬!」
「……! ちょ、ちょっと待って、それは……!」
ヒロくんから呼び捨てにされたのが予想以上に衝撃的で、私は思わず彼に制止の言葉をかけてしまった。
衝撃的というか、刺激的過ぎる。いい加減に落ち着いたと思ったはずの心臓が、この一瞬で再び高鳴り始めているのが、自分でもハッキリと分かる。
私は名残惜しさを感じつつ、そっとヒロくんから身体を離した。
「いい、ヒロくん? 気持ちは受け入れたし、私もヒロくんのことは好きよ。だけど、ちゃんと付き合うのはヒロくんが卒業してからだからね?」
「え……あ、そっか、教師と生徒なんてマズいもんな」
「そうよ。そんなことしたら私クビになっちゃうし、お互いの両親だって絶対に認めてくれないわ」
ここまでは二人の気持ちだけで話してきたけど、現実的な話だって必要だ。
特に私は成人した大人で教師なんだから、未成年で高校生のヒロくんを正しい方向へ導いてあげなければいけないのだ。
「まずヒロくんが大学に行くのは、最低限必須ね。高校生のうちは、恋人としては仮みたいなものよ。もちろんヒロくん以外の人を探すつもりはないけど……」
「婚約って事だな! 分かった!」
「ま、まあ、そういう言い方でも別にいいわよ。……本当なら、ヒロくんが大学も卒業してから付き合った方がいいと思うんだけど」
「えー、そんなに先なのか?……でも、有瀬がそうした方がいいって言うなら俺、ちゃんと我慢するよ。十二年に比べたら、ずっと短いもんな」
うう……物分かりのいい事を言ってくれているのに、逆に罪悪感がある。
影戌さんにも言われてしまったけど、単なる片想いだけだったならまだしも、私の場合は中途半端にヒロくんを傍に置いて、家事までやってもらっていたのだ。
あれも私への好意から来る行動だったと思うと、自分の罪深さが恐ろしくなる。
というか、ヒロくんのこの顔は反則だ。
昔から彼は私に何かをお願いする時――特に私に断わられそうな内容の時に、こうして捨てられた子犬のような寂しげな表情を見せる事がある。
この顔を見せられると私はそれ以上、何も言えなくなってしまうのだ。
もしかしたら彼もそれに気付いていて、わざとやっているのではないだろうか?
多分、そうではないと思いたい。
ヒロくんはそんな意地の悪い子ではないし、何よりこの表情を自在に出せるのだとしたら、私はこれからずっとヒロくんのお願いを断れなくなってしまう。
「流石にそこまで我慢させたりしないわよ。だからそんな顔しないの、ヒロくん」
ヒロくんがストレートで進学・卒業したとしても、その時には私は三十過ぎだ。
その年齢になったら、両親も婚活どころかお見合いの話を持って来かねない。
だから本当に、ヒロくんには今すぐその顔をやめてほしい。
その悲しそうな顔のままでいられると、うっかり頷いてしまいそうになるから。
「とりあえず高校は卒業して、ちゃんと大学に行ってね。それと『専業主夫になる』なんて言って、就職先を探さないのはダメよ? ご両親のお金で進学するんだから、ちゃんと手に職を付けないと」
最終的に私が働いてヒロくんに主夫をやってもらうのはアリだけど、最初からそれを目指すというのは、彼のご両親に対してあまりに不義理だろう。
だからといって大学にも行かず私と結婚して専業主夫になるなんて、それこそご両親の許可が下りるとは思えない。
私と一緒になったからといって、ヒロくんが堕落したと周りに思われないように、ちゃんと自立した大人にしてあげなければいけない。それが教師であり人生の先輩でもあり、そして恋人でもある私の務めなのだ。
それに、あまり考えたくはないけど……。
「それにヒロくんを疑うわけじゃないけど、ずっと私が傍にいたせいで周囲に目を向けていなかったっていう事もあると思うの。大学に行って新しい出会いがあったら、もっと年の近い素敵な相手が見つかるかもしれないわ」
ヒロくんは私が初恋の相手で、しかも一目惚れだと言っていた。
いわばずっと夢を見ていたような状態だったので、こうして想いが通じて現実に立ち返った時、思い描いていた理想との間にギャップを覚えるかもしれない。
自分より十歳も年上の相手よりも、同じくらいの年代の相手の方が遥かに気楽で魅力的だと、気付いてしまうかもしれない。
そうなった時、それを邪魔しないというのも大人である私の役目なのだ。
「なんだよ、それ」
だけどヒロくんは、そんな私の気遣いに見せかけた弱気を、一蹴してしまう。
「他の誰かなんて要らねえよ。有瀬よりも綺麗で素敵な人がいるって言うなら、今すぐここに連れてきてくれよ。そんな相手、世界中探したっているわけないだろ」
「ちょ、ヒロくん? ごめんなさい、私が悪かったから、それ止めて……!」
そんな口説き文句を言われたら、今すぐヒロくんと結婚したくなってしまう。
どうもヒロくんは私のことを「世界で一番綺麗な女性」だと思っている節があるけど、流石に過大評価にも程があると思う。
その言葉を真に受けて、本当に自分が世界一の美人だなんて浮かれたりはしないけど、それでも喜んでしまうのが女心というものだ。
「ごめんなさい、今のは私の言い方が卑屈だったわ。でも他の相手はないにしても、高校卒業してすぐに付き合ったりしたら、それこそ在学中の関係まで疑われるでしょう?」
「まあ、それはそうかも……」
「だから大学に行って、とりあえず一年か二年くらいは間を置きましょう? そうしたらヒロくんも二十歳だから、世間的には立派な大人よ」
「大人……俺が、有瀬と同じ……」
私との関係に悩んでいたヒロくんにとって、やはり「大人」という肩書きは重要な意味を持っているらしい。
ただ、嬉しそうな顔をしてくれるのはいいけど、さっきから訂正しなければいけないと思っていたことがあったので、ついでに言っておく。
「それと、その『有瀬』っていう呼び方も、正式に付き合うまでは禁止よ」
「えーっ? ここで呼ぶのもダメなのか? ていうか、有瀬も俺のこと弟っぽくない呼び方してよ。『広哉』とかさー」
「だからダメだってば。咄嗟の時になると、普段の呼び方が出ちゃうものなの」
「でも有瀬……じゃない、有瀬姉が俺のこと広哉って呼ぶのは、別におかしくないだろ?」
「ダメなものはダメ。そこはお互い様じゃないと、不公平でしょう?」
そうでないと困ってしまうのだ。特に私が。
仕事とプライベートのオンオフなら慣れているけど、恋のオンオフなんて経験がないから、どうやって切り替えればいいのか分からない。
その辺りを曖昧なままにしていたら、きっとどこかでボロを出してしまいそうな気がする。
「本当なら、こうして家に来るのも控えるべきなんだけど」
「……嫌だけど、有瀬姉がそうしろって言うなら、我慢する」
「い、言わないわよ。だからその顔やめて……」
うう……やっぱり健気すぎて、罪悪感が物凄い。
でも仕方ない。私とヒロくんが結ばれるには問題が多いから、ちゃんと手順を踏まなければいけないのだ。
――本当はこの告白自体、断るつもりだった。
ヒロくんの気持ちに気付かず、ここに縛り付けていた私には、彼の気持ちに応える資格なんてないと思っていた。
それに部室で真壁くんたちに言った通り、ヒロくんのことは弟としか思っていなかったし、仮に付き合ったとしても問題が多過ぎる。そんな「間違い」を正すのが、教師としての使命だと思っていた。
でもいざ家に帰って、ヒロくんの一生懸命な告白を見た途端に、そんな大人としての矜持はどこかに消えてしまった。
ヒロくんを泣かせてまで追い求めるほど、その「正しさ」が重要なものなのか、私には分からなくなってしまったのだ。
だから結局、私はヒロくんの告白を受け入れた。
きっとこの先も大変なことはあるけど、ヒロくんを泣かせることに比べたら、どれも大した問題ではないだろう。
なんと言っても私の隣には、ヒロくんがいてくれるのだから。
「さあ、そろそろご飯にしましょうか。せっかくヒロくんが作ってくれたんだ……」
難しい話はひとまず終わりにしようと提案しかけたけど、テーブルの上に並んでいた料理を見た私は、言葉を失った。
ヒロくんの告白で頭がいっぱいになっていて、今の今まで料理の内容が目に入っていなかったのだ。
「これ、ヒロくんが初めて作ってくれた時のメニュー……?」
「あ、気付いてくれたんだ」
私の反応を見たヒロくんが、嬉しそうな顔になる。
テーブルの上に並んでいたのは、シンプルなカレーライスとサラダのみ。今のヒロくんなら、どちらも手の込んだものに出来るはずだし、もう一品くらいは付けているはずだ。
だけど、これは手抜きなんかじゃない。
ヒロくんが私のために作ってくれた、初めてのメニューを再現したものだと、すぐに分かった。
「願掛けっていうのかな……。それに、もしかしたら今日で最後になるかもしれなかったから、やっぱりこのメニューかなって思ったんだ」
そう言ったヒロくんの顔を見て、私は改めて長い間、自分の愚鈍さによって彼を傷付けていたことを自覚した。
ヒロくんは十六歳の少年なりに全てを懸けて、この告白に臨んだのだ。
私と一緒に過ごした十二年間が、今日であっけなく終わってしまうかもしれないという、途方もない恐怖に立ち向かいながら。
そしてヒロくんは勝利を掴み、こうして何事もなかったかのように笑っている。
ここに至るまで、私の無神経さに愛想を尽かしても、不思議ではなかったのに。
「でも、有瀬姉。よく俺が最初に作ったメニューだって分かったな。正直、手抜きだと思われないか、ひやひやしてたんだけど」
「そんなの、分からないわけないでしょう。だってヒロくんの事なんだから……」
そこまで口にしたところで、私はようやく自分の想いに気が付いた。
正確には、その想いがいつから私の胸にあったのか、という事に。
そう、私がヒロくんの作ってくれた最初のメニューを忘れるはずがない。
だって大切な、私の可愛いヒロくんの事なんだから。
そうだ。きっと私は、あの日からずっと……。
「ふふ……あはは……あはははっ……」
「あ、有瀬姉? 急に笑い出して、どうしたんだよ?」
ヒロくんが戸惑っているのを知りながら、それでも私は笑い続けた。
だってあまりに滑稽で、笑わずにはいられない。
私はずっとヒロくんに夢中だった。
親友の弟だからって、そうそう幼稚園まで遊びに行ったりするものか。
顔を合わせる度に話したとしても、何年も続ければ飽きてくるに決まっている。
私はどうでもいい相手を部屋に上げたりするような、軽い女ではないはずだ。
全部――何もかも、私にとってヒロくんが特別だったからだ。
ヒロくんは、私に「一目惚れした」と言った。
だけど本当は私こそが、ヒロくんに一目惚れしていたのかもしれない。
たとえ最初は男女の恋ではなかったとしても、私は初めて会ったあの日から、ヒロくんに夢中だったのだ。
いい大人が十二年もかけて、いまさらこんな事に気付くなんて……。
「な、なんだよ、気になるだろ? やっぱ、メニューが手抜きで怒ったのか?」
「あは……ち、違う違う、そうじゃないの。ただ――」
ただ、当たり前のことに気付いただけ。
あまりに当たり前すぎて、今まで気付けなかった自分がおかしかっただけだ。
そう、私はこんなにも――。
「私はやっぱりヒロくんのことが大好きなんだって、そう思っただけよ」
これにて有瀬姉編は終了です。
長くなったのもありますが、「本当に一目惚れしたのは私だった」という言葉を
先生の視点で入れたかったのも、分割した理由の一つになります。
次回からは既存キャラの掘り下げにも、力を入れていく予定です。
と言いつつ、登場予定の新キャラもいますが。
そろそろ「ヤツ」も再登場しますので、是非ともお待ち下さい。