62.たとえ君が卵を割れなくても
――思い返せば、きっと一目惚れだった。
俺がまだ幼稚園に通うガキだった頃、当時中学生だった姉ちゃんが「親友」を家に連れてきた。
それまでも姉ちゃんが友達を連れてきたことはあったし、その人たちに可愛がってもらったこともあったけど、その「親友」はそれまで会った誰とも違った。
幼稚園児だった俺が――いや、高校生の今の俺が出会った人の中でも一番綺麗で、誰よりも目を奪われる女の人。それが有瀬姉だった。
『広哉くんっていうんだ。じゃあ、ヒロくんって呼んでもいいかな?』
『うん! ボクもお姉ちゃんって呼んでもいい?』
『うん、いいよ。今日から私も、ヒロくんのお姉ちゃんだね』
有瀬姉は昔から凄く美人だったけど、生真面目なところがあって男女関係には割と疎かった。後から聞いたら告白された経験もそこそこあったらしいけど、男と付き合ったことは一度もなかったみたいだ。
恋愛よりも友情を大事にしていた有瀬姉は、親友である俺の姉ちゃんの家――要するに俺の家によく遊びに来ていて、その度に弟分である俺の相手をしてくれた。
時には姉ちゃんに誘われて幼稚園の運動会に顔を出してくれたりして、俺は姉ちゃんや親が来るよりもずっと嬉しくて、有瀬姉にじゃれついたこともあった。
多分、ずっとその様子を見ていた実の姉ちゃんには、俺の気持ちはバレている。
なにせ有瀬姉が遊びに来ることが決まると、いつもニヤニヤしながら俺に知らせてきたから。小さかった当時の俺は、そんなの気付きもしなかったけど。
有瀬姉が高校を卒業して大学生になった頃、俺はまだ小学校の途中だった。
姉ちゃんたちは受験勉強もうちで一緒にやることが多かったから、その頃になっても俺と有瀬姉は何度も顔を合わせていた。
ただ、俺が思春期になったのと、有瀬姉が前よりもずっと綺麗になったせいで、前ほど素直に甘えられなくなったのは、今でもよく覚えている。
『おねえ……あ、有瀬姉!』
『あら、ヒロくんったら。もうお姉ちゃんって呼んでくれないの?』
『そ、そんな子供じゃねーし!』
『ふふ、そうだね。ヒロくんはもう大人だもんねー』
そう言って笑いかけてくれた有瀬姉があまりに綺麗で、子供心にドキドキが止まらなかったことは今でもよく覚えている。
いや、その時だけじゃない。出会ってから十年経った今でも、俺は有瀬姉の笑顔を見るとドキドキして仕方がないのだ。
『そうだよ、俺は大人だからな! 有瀬姉とおんなじだ!』
『そうだねー。お姉ちゃんとおんなじだねー、ヒロくん』
『だから、お姉ちゃんはもう卒業したの!』
きっと最初から、俺は有瀬姉に恋して生きてきた。
ずっと前から、俺は「有瀬姉と同じ大人」になりたかった。
大学生の時はまだ姉ちゃんも有瀬姉も余裕があったみたいだけど、就職してからは流石に忙しくて以前のように有瀬姉がうちに来ることも少なくなった。
正直に言えば寂しくて仕方なかったけど、俺から有瀬姉にコンタクトを取ったことなんてなかったし、姉ちゃんに「有瀬姉を呼んでくれ」なんて頼めるわけもない。そんなことをしたら、俺の気持ちがバレてしまうに決まっている。実際は、とっくの昔から姉ちゃんには知られていたんだと思うが。
『あれ、有瀬姉?』
『もしかして、ヒロくん? 大きくなったね。一瞬、誰だか分からなかった』
中学に上がりたてだった俺は道端で偶然、有瀬姉と会った。
その時は有瀬姉も特に忙しかったので、丸一年近く会っていなかった時期だ。
俺の場合は小六から身体が一気に大きくなったせいか、有瀬姉は本当に俺が誰だかすぐに分からなかったみたいで、前よりもさらに綺麗になった顔が驚きに彩られていた。
見違えるほどに自分が大きくなったと誇らしく思うと同時に、有瀬姉が俺にすぐ気付いてくれなかったことを寂しがる気持ちも、少しだけあった。
『有瀬姉って、今は一人暮らししてるんだよね』
『あ、うん、そうだよ』
だからだろうか。
久々に会った有瀬姉と立ち話するだけでは気が済まず、家まで押しかけようとしたのは。もっと話したいという気持ちが、照れ臭さを上回っていたのは。
きっと弟分の顔を見忘れてしまう薄情な有瀬姉に、腹が立っていたのだと思う。
会えなかった一年分の距離を、すぐにでも埋めたくて仕方なかったのだ。
『えっと、私の家はちょっと……』
『……ダメなの? 有瀬姉』
『あっ、その、ダメじゃないの! だからヒロくん、そんな顔しないで?』
今にして思えば、血が繋がっているわけでもない弟分を一人暮らしの家に招き入れたくない理由なんて、いくらでもあるだろう。
仕事が忙しい一人暮らしなんて家事が滞っていても仕方ないし、そもそも既に彼氏がいてその痕跡が残っているという可能性だってあった。
だけど有瀬姉が渋った理由は、そういうレベルじゃなかった。
意図せず泣き落としのような真似をして有瀬姉の住むマンションに招いてもらった俺は、扉を開けた直後にそれを理解してしまった。
『あの、有瀬姉。これ……何?』
『ごめんなさい……。私、昔から家事とか本当にダメで……』
美人の有瀬姉が落ち込んだ姿に少しだけドキッとしたけど、そんな気持ちが数秒で吹き飛んでしまうくらいに、その部屋の惨状は凄まじかった。
おそらく引っ越してから開けてもいない段ボールが床に積まれていて、その上には空のペットボトルやチューハイの空き缶が何本も並べられている。
流石に生ゴミだけは処理しているのか異臭はしなかったけど、可燃ゴミやビニールゴミは袋に詰められたまま、玄関近くに放置されている有り様だった。
まとめてしまうと、忙しく働いている人間の部屋としては不思議ではない。
腐臭もなければ虫も湧いていないので、人間性が疑われるレベルでもない。
ただ、昔から真面目だった有瀬姉のイメージからは、かけ離れた部屋だった。
『ごめんね……。お姉ちゃん、大人なのに。こんな恥ずかしい部屋で……』
『えっと……そうだ、掃除! 掃除しようぜ、有瀬姉! 俺も手伝うからさ!』
しょげる有瀬姉に、俺は「掃除をしよう」と提案した。
正直に言えば、自分が有瀬姉の役に立てる状況を喜んですらいた。
当時の俺はまだ家事の知識なんてほとんどなかったけど、有瀬姉の部屋は細かいテクニック以前に余計な物を片付けてしまう必要があったから、掃除といえば年末の大掃除というレベルの俺でも十分戦力になったと思う。
むしろ戦力外だったのは有瀬姉の方で、やたらと物は落とすし掃除機をかければ変な場所にぶつけるしで、最後は要るものと要らないものを俺に聞かれるだけの置き物のようになっていた。
途中で淹れてくれたお茶も、まあ酷い味だった。有瀬姉が初めて俺のために淹れてくれたから、頑張って全部飲み干したけど。
『床が……床が見える……。この部屋の床って、こんな感じだったのね』
『いや、感動してないでカーペット敷こうぜ、有瀬姉。そこに丸まってたから』
最初に押し掛けた日だけじゃなくて、次の週末まで無理矢理に予定を入れて、俺は有瀬姉の部屋の掃除をどうにか終わらせた。
有瀬姉は引っ越し以来、初めてまともに片付いた自分の部屋に大いに感動して、俺のために何とか手料理を……作ってくれようとしたけど、せっかく片付けた部屋を汚されたら堪ったものではないので、ファミレスで打ち上げをする事にした。
『かんぱーい♪ ふふっ……本当にありがとう、ヒロくん。すっかり頼れる大人になっちゃったのね。お姉ちゃん、ビックリしちゃった』
『そ、そりゃあ俺だって、もう中学生だし? ていうか有瀬姉、お姉ちゃんはもう卒業したって言っただろ!』
『あら、そうだったわね……。ごめんなさい、ヒロくん』
大して悪びれていない有瀬姉の顔に見惚れながら、俺はこうやって二人で過ごせる時間がこれっきりで終わってしまうことを、どうしようもなく惜しいと思った。
こうして再会する前――小学生の頃までは頻繁に有瀬姉に会えたけど、それはあくまで姉ちゃんの親友と親友の弟としてで、二人きりになれたことなんて、ほとんどなかった。
だけど今はこうして二人きりで話せているし、中学生の俺でも間違いなく有瀬姉の役に立っている。
『有瀬姉、どうせあの部屋を綺麗なままにするなんて出来ないだろ? だから、また俺が掃除してやるよ』
『え、でもそんなこと、ヒロくんにやらせるわけには……』
『いいから、俺に任せとけって。たまに見に行って、散らかってたら片付けてやるからさ』
だから俺はこの機会を一度で終わりにしないために、どうにか次に繋げようと思った。
幸い有瀬姉は家事に関しては信じられないくらいに不器用だから、それを口実にすれば大して難しい話ではない。
流石に大人としてのプライドがあるのか、有瀬姉は遠慮というか渋っていたけど、最後には俺の提案を受け入れてくれた。
『でも、やっぱり悪いわよ』
『俺がいいって言ってるんだから、遠慮すんなって。それとも俺が家に行ったら、邪魔か……?』
『……ああ、もうっ。ヒロくんが邪魔だなんて、私が言うわけないでしょう? 分かったから、そんな顔しないの』
『マジか!? よっしゃあ! 有瀬姉、これから部屋の掃除は、全部俺に任せとけばいいからな!』
『もう、ヒロくんったら……』
有瀬姉の許可を得た直後から、俺は母さんに頼み込んで家事を教えてもらった。掃除は当然として、料理や洗濯まで一通りだ。
急なお願いに母さんは驚いていたけど、有瀬姉から経緯を聞いたらしい姉ちゃんの説明を受けた途端に、ニヤニヤした顔で承諾してくれた。
まあ、幼稚園時代の俺のことなんて、姉ちゃん以上に母さんの方が理解しているに決まっている。親子揃って、俺が初恋の人のために家事を覚えようとしていると見抜いていたんだろう。
最初の頃はたまに部屋の片付けをして、そのお礼という名目で有瀬姉に外食を奢ってもらうのが定番だった。
だけど母さんの指導で料理の方もそこそこ出来るようになった俺はある時、掃除のついでに夕飯も作ると提案した。
当然、有瀬姉は遠慮したけど、俺が「どうしても食べてほしい」と言ったら頷いてくれたし、実際に料理を食べた時も目を輝かせて「美味しい」と言ってくれた。あの時の感動というか達成感は、今でも鮮明に思い出せる。
そうして徐々に有瀬姉の部屋を訪ねる頻度を上げて、俺が中三になる頃には毎日のように入り浸って料理を作っていた。
『またダメだった……。もう何連敗だったかしら』
『元気出せって、有瀬姉』
その頃になると有瀬姉は両親に色々と言われたらしく、婚活というものを始めた。要するに結婚相手を探すということだ。
正直、悔しかった。俺がいるのに婚活をするということは、有瀬姉が俺のことをそういう相手として意識していないと明言したようなものだ。
俺にとって救いだったのは、有瀬姉の婚活が予想外に難航していたことだ。
あんなに美人でしっかり働いているのにのに何故だろうと思ったけど、どうやら有瀬姉は婚活で出会った相手に、家事が壊滅的に苦手であることを正直に話していたらしい。
真面目な有瀬姉らしいと微笑ましく思うと同時に、家事が出来ないうちは有瀬姉が誰にも取られないのだと、少しだけ安心してしまった。
『やっぱり家事が出来ないと厳しいわよね……。共働きでも、家事の分担が出来ないんじゃ不公平だし。それか専業主夫になってくれる人がいれば……』
――だったら俺でいいじゃねえか。
そんな言葉が口から飛び出しそうになったけど、どうにか抑え込んだ。
俺と有瀬姉は、ちょうど十歳差だ。まだ子供だと思われていても仕方がない。
それに来年になれば、俺は有瀬姉の勤めている学校に進学することになる。
教師と生徒で恋人関係だなんて、スキャンダル以外の何物でもないだろう。
あそこの学校はこの辺りだと一番大きいところだから、よほど学力が足りていないか専門で学びたいことがない限り、大抵の人間は進学先に選んでいる。
俺の学力は家事の合間に勉強を見てくれている有瀬姉も把握しているので、誤魔化して他の高校に行くのは不可能だろう。
大体、別の学校に行ったからといって、有瀬姉と付き合えるわけでもないのに。
『私がこうして生活できてるのは、ヒロくんのお陰よね。本当、持つべきものは優しい弟だわ。ヒロくんのお嫁さんになる人は、きっと幸せになれるわね』
有瀬姉が誰よりも綺麗な笑顔で俺を褒めてくれたのに、少しも嬉しくなかった。
俺が幸せにしたい相手は、あの日からずっと……。
「…………」
有瀬姉の帰りを待ちながら目を閉じて、これまでの思い出を振り返っていた俺は、過去の苦々しい会話を最後に思い返してから目を開いた。
大丈夫だ。あの部室で俺の胸につけられた火は、まだ消えていない。
ずっと叶うわけがないと燻らせていた想いが、今にも溢れ出しそうだ。
あの先輩に言われるまでもなく、俺はずっと気付いていた。
いつか家事の出来ない有瀬姉でも受け入れてくれる人が現れて、きっと俺の存在は邪魔になる。そうなる前に、有瀬姉から離れるべきだと。
それでも有瀬姉の傍にいたいのなら、方法は一つしかない。
他の誰でもない、俺が有瀬姉の――。
「た、ただいま……」
「……!」
決意を新たにすると同時に、有瀬姉が部屋に帰ってきた。
もう四年目になる、いつも通りの光景だ。
こうして有瀬姉を迎えるためだけに、俺は中学から部活にも入らず、今では毎日のようにこの部屋に通って料理を作っていた。
それがつらいなんて思った事は一度もない。有瀬姉と一緒にいるよりも大切な事なんて、俺には何一つなかったからだ。
「おかえり、有瀬姉」
「あ、うん……ただいま、ヒロくん。今日もご飯作ってくれて、ありがとう」
いつも通りの会話。いつも通りの俺たち。
そのはずなのに、有瀬姉の様子がいつもと少し違うように見えるのは、このいつも通りの時間が今日で終わるかもしれないと、俺が怖気づいているせいだろうか。
どこか緊張しているようにも見える有瀬姉を前にして、俺は口を開いた。
「有瀬姉。飯の前に、話したい事があるんだ」
「……何かしら?」
「婚活、上手く行きそう?」
俺の言葉を聞いた有瀬姉は一瞬だけ呆けた後、自嘲気味な笑顔で首を振った。
「ヒロくんも知っての通り、難しいわね……でも諦めたわけじゃないから、きっと大丈夫よ。私だって練習すれば、少しくらいは家事も――」
「しなくていいよ」
「え?」
突然、言葉を遮られて呆気にとられる有瀬姉を余所に、俺は言葉を続ける。
「有瀬姉は、家事の練習なんてしなくていい」
「で、でもヒロくん、それじゃあ結婚相手が……」
「料理なんて出来なくていい。掃除なんてヘタクソなままでいい。洗濯の仕方なんて分からないままでいい」
有瀬姉は、そんなもの何も出来なくてもいい。
専業主夫になってくれる誰かだって、わざわざ探さなくてもいい。
そんな事しなくたって――。
「全部、俺がやってやるから」
だから――お願いだから、他の誰かなんて求めないでくれ。
これからもずっと、俺が有瀬姉のためだけに全部やってやるから。
「好きなんだよ、有瀬姉のことが。初めて会った頃から、ずっと」
「ヒロくん……」
「一目惚れだったんだ。幼稚園児だったくせにって思うかもしれないけど、あの頃からずっと好きだった。今はあの頃よりも、もっと有瀬姉が好きだ」
気が付けば、いつの間にか目の前が滲んで、良く見えなくなっていた。
どうやら俺は泣いているらしい。告白の場面だって言うのに格好悪い。
でも無理だろう。有瀬姉に出会って、今年で十二年目だ。十二年物の初恋が終わるかもしれないってのに、冷静でなんていられるわけがない。
だから、せめて格好悪くても声に出すのだ。たとえ今日で全てが終わるとしても、有瀬姉に俺の気持ちが全部伝わるように。後悔なんてしなくて済むように。
「有瀬姉、婚活するなら……結婚相手が欲しいなら、俺にしろ。これからもずっと俺が有瀬姉の飯作ってやるから、毎日食べてくれ」
言いながら、俺は制服の袖で涙を拭った。
ぼやけていた視界が晴れると、有瀬姉の悲しそうな顔が目に入る。
……なんで、そんな顔してんだよ。やっぱり俺は弟でしかないのか? 俺が有瀬姉の傍にいられる時間は、やっぱり今日で終わりなのか?
そんなのは、絶対に嫌だ。
「有瀬姉、言ったよな……俺のお嫁さんになる人は、きっと幸せになれるって。だったら自分の言葉が正しいって、証明して見せてくれよ。俺が……俺が有瀬姉のこと、幸せにしてやるから!!」
もう有瀬姉の顔なんて、少しも見えなかった。
さっき拭ったはずの涙が、いつの間にか再び頬を伝っている。
全部ぶちまけて、きっと全てが今日で終わってしまうのだと理解していた。
これ以上、俺から有瀬姉に伝えられる言葉なんて一つもない。
俺は有瀬姉とは十歳も離れてるし、金なんて持ってないどころか稼ぐことだって出来ない。人より頭がいいわけでも、顔がいいわけでもない。
ただ有瀬姉が好きで、有瀬姉の好きな食べ物を誰よりも知っているだけだ。
俺が嗚咽を漏らすだけの中、有瀬姉が一歩傍に近付いてきたのが分かった。
それでも俺は俯いたまま、顔を上げる事が出来ずにいる。
そして……。
「ごめんね、ヒロくん」
聞きたくなかった、有瀬姉の謝罪の言葉が耳に届いてしまった。
「うう……うああああああぁっ」
もう立っていられるだけの気力もなく、俺は床に座り込んだ。
有瀬姉は、俺の気持ちを受け入れてくれなかった。
俺の十二年の恋は、ここで終わりを迎えたのだ。
「本当にごめんね。こんな……こんなに私を好きでいてくれたのに、今まで気付いてあげられなくて」
「え……?」
気付けば有瀬姉は、俺の隣にしゃがみ込んでいた。
顔を上げると、きっと俺と同じくらいに涙でくしゃくしゃになっている有瀬姉の顔が目に入る。
それでも綺麗だと思ってしまうのは、俺がまだ有瀬姉を好きだからだろうか。
「私もね、ヒロくんが大好きよ」
有瀬姉が口にした言葉に、俺の頭は一瞬で空っぽになってしまった。
そんな俺の様子には構わず、有瀬姉は話し続ける。
「ヒロくんの作ってくれるご飯が、美味しくて好き。うちに帰るとヒロくんが『おかえり』って言ってくれるのが、嬉しくて好き。……私のために家事を頑張ってくれてるヒロくんが、本当に大好き」
「あ、有瀬姉ぇ……!」
「本当にバカよね。私の大事な人は、ずっと前からこんなに近くにいたのに……」
有瀬姉はそう言いながら、俺を抱き締めてくれた。
ようやくその意味を理解した俺は、居ても立っても居られずに抱き締め返す。
――俺はまだ有瀬姉の傍にいてもいいのだ。
とても大人とは思えない泣き声を漏らす有瀬姉の顔を、横目でそっと窺った。
くしゃくしゃの表情で、化粧だって落ちて酷い有り様だったけど――。
やっぱり有瀬姉は、世界中の誰よりも綺麗だと、俺は思う。
次回、先生視点でもう一話やります。